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古今東西のお話と古今東西のお話と古今東西のお話 ウィキペディア フリ−百科事典より


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荒川 博
古今東西のお話      性別: 秘密   年代: ナイショ   居住地: 秘密  
荒川 博(あらかわ ひろし、1930年8月6日 - )は、東京都出身の元プロ野球選手(外野手)・監督。一時期、「博久(ひろひさ)」に改名。
Date: 2012/01/16/23:06:52   No.72

Re:荒川 博
古今東西のお話      性別: 秘密   年代: ナイショ   居住地: 秘密  
早稲田実業学校から早稲田大学商学部(岩本尭は同期。広岡達朗と政治家の渡部恒三は後輩)へ進学。東京六大学リーグ通算81試合出場、289打数81安打、打率.280、1本塁打、40打点。1953年、毎日オリオンズに入団。現役時は左の巧打者として鳴らした。

1961年に引退後、1962年から1970年は読売ジャイアンツ打撃コーチ。養子の尭がプロ入りしたのを期に、公私のけじめをつけるため巨人軍コーチを勇退。1973年途中からヤクルトアトムズの打撃コーチに就任し、1974年監督昇格。コーチ陣に広岡、小森光生、沼澤康一郎と早大の後輩を配し、早大カルテットと称された。1976年5月12日、成績不振の責任をとり辞任。

フジテレビ、日本テレビ解説者となる。現在はフリーの野球評論家。少年野球の指導者としても活動している。2006年にゲスト解説として久々に公に姿を見せた。
Date: 2012/01/16/23:07:25   No.73

Re:荒川 博
古今東西のお話      性別: 秘密   年代: ナイショ   居住地: 秘密  
毎日時代に榎本喜八を指導し、王貞治を少年時代に見出して母校の早実への進学を薦め、川上哲治監督に請われ巨人の打撃コーチに就任し、荒川道場と呼ばれる厳しい指導で、特に王に一本足打法を指導したことで知られる。
1968年、阪神のジーン・バッキーが投げた王への危険球に端を発する乱闘で、バッキーに殴られ4針も縫う重傷を負い、殴ったバッキーも指を骨折したエピソードも有名(バッキー荒川事件)。この怪我が致命傷となり、バッキーは翌年の1969年オフに引退した。なお1985年ごろ、荒川は来日したバッキーと再会、恩讐を越え仲良く握手していた。
1967年の中日戦で、円城寺満審判に対し判定を不服とし、柴田勲とともに同審判を小突き回し判定を変えさせたが、退場処分を受けた。同試合終了後に円城寺は審判引退を表明したが、その光景は後に幾度となく審判との暴力沙汰を起こす事になる暴れん坊の金田正一をして「長年野球一筋で来た円城寺さんが殴られるのを見て哀しくて見てられなかった」とコメントするほどであった。
養子は荒川尭で、1969年のドラフトで「巨人とアトムズ以外は拒否」を表明して大洋ホエールズ指名を拒否して、それを快く思わない暴漢に襲われ、その後ヤクルトへのすぐのトレードを条件に大洋に一時入団したことで知られる(荒川事件)。
後に荒川道場と称し駒田徳広らにも一本足打法を伝授したが、王ほどの効果はなかった。
Date: 2012/01/16/23:08:06   No.74

Re:荒川 博
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D%E5%8D%9A
すばらしい方
Date: 2012/01/16/23:10:01   No.75


ヨークシャーテリア
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The Yorkshire Terrier is a small dog breed of terrier type, developed in the 19th century in the county of Yorkshire, England to catch rats in clothing mills. The defining features of the breed are its size, 3 pounds (1.4 kg) to 7 pounds (3.2 kg), and its silky blue and tan coat. The breed is nicknamed Yorkie and is placed in the Toy Terrier section of the Terrier Group by the Fédération Cynologique Internationale and in the Toy Group or Companion Group by other kennel clubs, although all agree that the breed is a terrier. A popular companion dog, the Yorkshire Terrier has also been part of the development of other breeds, such as the Australian Silky Terrier.

Coat

For adult Yorkshire Terriers, importance is placed on coat colour, quality, and texture. The hair must be glossy, fine, straight, and silky. Traditionally the coat is grown-out long and is parted down the middle of the back, but "must never impede movement."

From the back of the neck to the base of the tail, the coat should be a dark gray to a steel-blue, and the hair on the tail should be a darker blue. On the head, high chest, and legs, the hair should be a bright, rich tan, darker at the roots than in the middle, that shades into a lighter tan at the tips. Also, in adult dogs, there should be no dark hairs intermingled with any of the tan coloured fur.

Adult Yorkshire Terriers that have other coat colours than the above, or that have woolly or extra fine coats, are still considered to be Yorkshire Terriers, and will be just as good of a companion as a dog with the correct coat. The only difference is that atypical Yorkshire Terriers should not be bred. In addition, care may be more difficult for "woolly" or "cottony" textured coats, or coats that are overly fine. One of the reasons given for not breeding "off-coloured" Yorkies is that the colour could be a potential indicator of a genetic defect that may affect the dog's health, a careful health screening can clarify if any health risks exist or not.


ヨークシャーテリアは、衣類工場でネズミを捕まえるためにイギリス、ヨークシャーの郡では19世紀に開発されたテリアのタイプの小型犬の品種、です。品種の決定的な特徴は、そのサイズ、3ポンド(1.4キロ)7ポンド(3.2キロ)に、その絹のような青と黄褐色のコートです。すべての品種はテリアであることに同意しているがこの犬種は、ヨーキーの愛称で呼ばれ、他の犬小屋クラブによって国際畜犬連盟でとトイグループまたはコンパニオングループのテリアグループのおもちゃテリアのセクションに配置されます。人気のコンパニオン犬、ヨークシャーテリアはまた、オーストラリアのシルキーテリアのような他の品種の開発の一部となっています。

コー​​ト

大人のヨークシャーテリアのために、重要性が毛色、品質、およびテクスチャに配置されます。髪は、光沢のある細かい、ストレート、そして絹のような必要があります。伝統的に上着が長いとバックの真ん中を押しpartedをさ成長アウトですが、"動きを阻害してはいけません。"

http://translate.google.co.jp/translate_t#
Date: 2012/01/16/10:28:23   No.71


鞍馬山
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鞍馬山(くらまやま)は、京都府京都市左京区にある山である。標高584m[1]。東を鞍馬川、西を貴船川に挟まれた尾根が南北に連なる
Date: 2012/01/15/01:51:31   No.69

Re:鞍馬山
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霊山として知られ、密教による山岳修験の場として栄えた。延暦15年(796年)、あるいは宝亀元年(770年)には、鞍馬山の南中腹に毘沙門天を本尊とした鞍馬寺が創建された。また、牛若丸(後の源義経)の修行の地であり、「鞍馬天狗」で知られている。古くより、春は桜、秋は紅葉の名所としても知られた。「更級日記」にも鞍馬山の春秋の姿が描写されている。

由来 [編集]

鞍馬山の古名を暗部山とする説がある。暗い場所を意味する「暗部(闇部)(読み、くらぶ)」の読みが鞍馬に転じたとする説である。

「くらぶ山」、「くらま山」は歌枕でもある。「和歌初学抄」、「五代集歌枕」など多くの歌学書では、「くらぶ山」は山城国の山であるとはしているものの、その具体的な場所を特定していない。これらの歌学書では、「くらぶ山」と「くらま山」をそれぞれ別の歌枕として扱っている。在原元方、紀貫之らの歌人が「くらぶ山」を歌枕として詠み、それらは「古今和歌集」に収められている。同様に、安法法師らの歌人が「くらま山」を歌枕として詠み、これは「拾遺和歌集」に収められている。このように、和歌においては暗部山と鞍馬山は異なる山とされる。

近世における地名としての暗部山に目を向けると、「都花月名所」では暗部山は鞍馬山のことであるとしているが、「都名所圖會」、「山城名勝志」などでは、鞍馬山の西に位置する貴船山が暗部山のことであるとしている。「雍州府志」では、暗部山は貴船山のことであるという説を先に挙げながらも、鞍馬山を暗部山とする説もあるとしている。このような混同が見られ、地名としての暗部山も鞍馬山のことを指しているとは断定できない。
Date: 2012/01/15/01:52:24   No.70


『平家物語』(へいけものがたり)
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『平家物語』(へいけものがたり)は、鎌倉時代に成立したと思われる、平家の栄華と没落を描いた軍記物語である。

保元の乱・平治の乱勝利後の平家と敗れた源家の対照、源平の戦いから平家の滅亡を追ううちに、没落しはじめた平安貴族たちと新たに台頭した武士たちの織りなす人間模様を見事に描き出している。和漢混淆文で書かれた代表的作品であり、平易で流麗な名文として知られ、「祇園精舎の鐘の声……」の有名な書き出しをはじめとして、広く人口に膾炙している。
Date: 2012/01/15/01:27:27   No.46

Re:『平家物語』(へいけものがたり)
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平家物語という題名は後年の呼称であり、当初は『保元物語』や『平治物語』と同様に、合戦が本格化した治承(元号)年間より『治承物語(じしょうものがたり)』と呼ばれていたと推測されているが、確証はない。

正確な成立時期は分かっていないものの、仁治元年(1240年)に藤原定家によって書写された『兵範記』(平信範の日記)の紙背文書に「治承物語六巻号平家候間、書写候也」とあるため、それ以前に成立したと考えられている。しかし、「治承物語」が現存の平家物語にあたるかという問題も残り、確実ということはできない。少なくとも延慶本の本奥書、延慶2年(1309年)以前には成立していたものと考えられている。
Date: 2012/01/15/01:28:02   No.47

Re:『平家物語』(へいけものがたり)
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作者については古来多くの説がある。最古のものは吉田兼好の『徒然草』で、信濃前司行長(しなののぜんじ ゆきなが)なる人物が平家物語の作者であり、生仏(しょうぶつ)という盲目の僧に教えて語り手にしたとする記述がある。

「後鳥羽院の御時、信濃前司行長稽古の譽ありけるが(中略)この行長入道平家物語を作りて、生佛といひける盲目に教へて語らせけり。」(徒然草226段)

その他にも、生仏が東国出身であったので、武士のことや戦の話は生仏自身が直接武士に尋ねて記録したことや、更には生仏と後世の琵琶法師との関連まで述べているなど、その記述は実に詳細である。

この信濃前司行長なる人物は、九条兼実に仕えていた家司で中山(藤原氏)中納言顕時の孫である下野守藤原行長ではないかと推定されている。また、『尊卑分脈』や『醍醐雑抄』『平家物語補闕剣巻』では、やはり顕時の孫にあたる葉室時長(はむろときなが、藤原氏)が作者であるとされている。尚、藤原行長とする説では「信濃前司は下野前司の誤り」としているが、徒然草では同人を「信濃入道」とも記している(信濃前司行長=信濃入道=行長入道)。

そのため信濃に縁のある人物として、親鸞の高弟で法然門下の西仏という僧とする説がある。この西仏は、大谷本願寺や康楽寺(長野県篠ノ井塩崎)の縁起によると、信濃国の名族滋野氏の流れを汲む海野小太郎幸親の息子で幸長(または通広)とされており、大夫坊覚明の名で木曾義仲の軍師として、この平家物語にも登場する人物である。ただし、海野幸長・覚明・西仏を同一人物とする説は伝承のみで、史料的な裏付けはない。
Date: 2012/01/15/01:28:40   No.48

Re:『平家物語』(へいけものがたり)
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現存している諸本としては、以下の二つがある。
盲目の僧として知られる琵琶法師(当道座に属する盲人音楽家。検校など)が日本各地を巡って口承で伝承してきた語り本(語り系、当道系とも)の系統に属するもの
読み物として増補された読み本(増補系、非当道系とも)系統のもの

語り本系 [編集]

語り本系は八坂系と一方系とに分けられる。

八坂系諸本は、平家四代の滅亡に終わる、いわゆる「断絶平家」十二巻本である。一方、一方系諸本は壇ノ浦で海に身を投げながら助けられ、出家した建礼門院による念仏三昧の後日談や侍女の悲恋の物語である「灌頂巻」を特立する。

平曲 [編集]

詳細は「平曲」を参照

語り本は当道座に属する盲目の琵琶法師によって琵琶を弾きながら語られた。これを「平曲」と呼ぶ。ここでいう「語る」とは、節を付けて歌うことであるが、内容が叙事的なので「歌う」と言わずに「語る」というのである。これに使われる琵琶を平家琵琶と呼び、構造は楽琵琶と同じで、小型のものが多く用いられる。なお、近世以降に成立した薩摩琵琶や筑前琵琶でも平家物語に取材した曲が多数作曲されているが、音楽的にはまったく別のもので、これらを平曲とは呼ばない。

平曲の流派としては当初は八坂流(伝承者は「城」の字を継承)と一方流(伝承者は「一」の字を継承)の2流が存したが、八坂流は早くに衰え、現在ではわずかに「訪月(つきみ)」の一句が伝えられているのみである。一方流は江戸時代に前田流と波多野流に分かれたが、波多野流は当初からふるわず、前田流のみ栄えた。安永5年(1776年)には名人と謳われた荻野検校(荻野知一検校)が前田流譜本を集大成して「平家正節(へいけまぶし)」を完成、以後同書が前田流の定本となった。

明治維新後は幕府の庇護を離れた当道座が解体したために伝承する者も激減し、昭和期には仙台に館山甲午(1894年生〜1989年没)、名古屋に荻野検校の流れを汲む井野川幸次・三品正保・土居崎正富の3検校だけだったが平成20年現在では三品検校の弟子今井某が生存しているだけである。しかも全段を語れるのは晴眼者であった館山のみとなっていた。平曲は国の選択無形文化財に選択されて保護の対象となっており、それぞれの弟子が師の芸を伝承している。

平曲の発生として、東大寺大仏殿の開眼供養の盲目僧まで遡ることが「日本芸能史」等で説かれているが、平曲の音階・譜割から、天台宗大原流の声明の影響下に発生したものと考える説が妥当と判断される。また、平曲は娯楽目的ではなく、鎮魂の目的で語られたということが本願寺の日記などで考証されている。 また後世の音楽、芸能に取り入れられていることも多く、ことに能(修羅物)には平家物語に取材した演目が多い。

読み本系 [編集]

読み本系には、延慶本、長門本、源平盛衰記などの諸本がある。従来は、琵琶法師によって広められた語り本系を読み物として見せるために加筆されていったと解釈されてきたが、近年は読み本系(ことに延慶本)の方が語り本系よりも古態を存するという見解の方が有力となってきている。とはいえ、読み本系の方が語り本系に比べて事実を正確に伝えているかどうかは別の問題である。

広本系と略本系の関係についても、先後関係は諸説あって不明のままであるが、読み本系の中では略本系が語り本と最も近い関係にあることは、源平闘諍録の本文中に平曲の曲節に相当する「中音」「初重」が記されていることからも確実視されている。

刊行本 [編集]

現在入手しやすい版本は、『日本古典文学大系』岩波書店全2巻 (覚一本系・龍谷大学図書館蔵本)、『日本古典文学全集』小学館全2巻、『新日本古典文学大系』(岩波書店全2巻、のち全4巻で岩波文庫と同ワイド版)が刊行している。

他に『完訳日本の古典』全4巻 小学館(覚一本系・高野本)、『新潮日本古典集成』全3巻 新潮社(仮名百二十句本・国立国会図書館本)がある。
Date: 2012/01/15/01:29:47   No.49

Re:『平家物語』(へいけものがたり)
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斜体は物語のみに見られる人物。
源有綱…義経の娘婿。
一条能成…義経の異父弟。
中原信康…義経の右筆。
武蔵坊弁慶…義経四天王の一人。
佐藤継信…『源平盛衰記』における義経四天王の一人。
佐藤忠信…『源平盛衰記』における義経四天王の一人。
伊勢義盛…義経四天王の一人。
堀景光…『平治物語』では金商人とされる。
深栖頼重…『平治物語』で鞍馬寺を出奔した義経を東国で匿う。
亀井重清…義経四天王の一人。
片岡経春…『義経記』における義経四天王の一人。
常陸坊海尊…義経四天王の一人。
鷲尾義久…『平家物語』の一ノ谷の戦いで現地採用される。
駿河次郎…『義経記』における義経四天王の一人。
鎌田正近…『義経記』で義経に出生の秘密を告げる。
鎌田盛政…『源平盛衰記』における義経四天王の一人。
鎌田光政…『源平盛衰記』における義経四天王の一人。
金売吉次…『平治物語』『源平盛衰記』『義経記』における奥州への案内人。堀景光と同一人物である説もある。
十郎権頭兼房…『義経記』に登場する老臣で義経正室の守り役。
喜三太…『義経記』に登場する下男
Date: 2012/01/15/01:40:58   No.60

Re:『平家物語』(へいけものがたり)
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優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓(ほうがんびいき[注釈 19])というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。

義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との五条の大橋での出会い、陰陽師鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川の戦いでの弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。

また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。

不死伝説 [編集]

後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、義経北方伝説と呼んでいる[12]。この伝説に基づいて、寛政11年(1799年)、蝦夷の日高ピラトリ(現 北海道平取町)に義経神社が創建された。

義経の戦術は奇襲攻撃が多く、アイヌの人々の狩りのやり方によく似ていた。

義経北方(北行)伝説の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる『御曹子島渡』説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。未知なる地への冒険譚が、庶民の夢として投影されているのである。このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地(北海道)のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。またアイヌの人文神であるオキクルミは義経、従者のサマイクルは弁慶であるとして、アイヌの同化政策にも利用された。またシャクシャインは義経の後裔であるとする(荒唐無稽の)説もあった。これに基づき、北海道の本別町では義経山や、弁慶洞と呼ばれる義経や弁慶らが一冬を過ごしたとされる洞窟が存在する。

義経=ジンギスカン説 [編集]

詳細は「義経=ジンギスカン説」を参照

この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする「義経=ジンギスカン説」である。

この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にある。清の乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、あるいは12世紀に栄えた金の将軍に源義経というものがいたという噂が流布している。これらの噂は、江戸時代初期に沢田源内が発行した『金史別本』の日本語訳が元ネタである[注釈 20]。

このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人(満州人)になったという風説から、明治時代になると義経がチンギス・ハーンになったという説が唱えられるようになった。明治に入り、これを記したシーボルトの著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄は、当時中国の属国としか見られていなかった日本の自己主張のために、ケンブリッジ大学の卒業論文で「大征服者成吉思汗は日本の英雄源義経と同一人物なり」という論文を書き、『義経再興記』(明治史学会雑誌)として日本で和訳出版されブームとなる。

大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州・モンゴルを旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・ハーンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。この本は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーとなる。現代の日本で義経=ジンギスカン説が知られているのは、この本がベストセラーになった事によるものである。

こうしたジンギスカン説は明治の学界から入夷伝説を含めて徹底的に否定され、アカデミズムの世界でまともに取り上げられる事はなかったが、学説を越えた伝説として根強く残り、同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版された。この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、かつての入夷伝説の形成が江戸期における蝦夷地への関心と表裏であったように、領土拡大、大陸進出に突き進んでいた当時の日本社会の風潮があった。

現在では後年の研究の結果や、チンギス・ハーンのおおよその生年も父親の名前も「元朝秘史」などからはっきりと判っていることから、源義経=チンギス・ハーン説は学術的には完全に否定されている。
Date: 2012/01/15/01:41:56   No.61

Re:『平家物語』(へいけものがたり)
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菱沼一憲 [編集]

菱沼一憲(『』国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書(菱沼 [2005])で以下の説を述べている。
任官問題 頼朝との対立の原因については、確かに、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)八月十七日条には、同年8月6日、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、8月3日、頼朝は義経に伊勢の平信兼追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、同月26日、義経は平氏追討使の官符を賜っている。源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同29日なので、それより早い。つまり、義経が平氏追討使を猶予された記録はないのである。よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。 戦術家として 義経は優れた戦略家であり戦術家であった。どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。 一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。また、義経自身の報告によると、西の一ノ谷口から攻め入っているのであり、僅かな手勢で断崖を駆け下りるという無謀な作戦は実施していない。 屋島の戦いでは、水軍を味方に付けて兵糧・兵船を確保し、四国の反平家勢力と連絡を取り合うなど、1箇月かけて周到に準備している。そして、義経が陸から、梶原景時が海から屋島を攻めるという作戦を立てていたのであり、景時が止めるのも聞かずに嵐の海に漕ぎ出したわけではない。 壇ノ浦の戦いの前にも、水軍を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を奪い、軍備を整えるのに1箇月を要している。また、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平家方も応戦するはずである。当時、平家方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである。そもそも当時の合戦にルールは存在せず(厳密に言うならば、武士が私的な理由、所領問題や名誉に関わる問題で、自力・当事者間で解決しようとして合戦に及ぶ場合には一騎打ちや合戦を行う場所の指定などがあったことが『今昔物語集』などで確認できる)、義経の勝因を当時としては卑怯な戦法にある、と非難することに対する反論もある。 義経は頼朝の代官として、平家追討という軍務を遂行しつつ、朝廷との良好な関係を構築するという相反する任務をこなし、軍事・政治の両面で成果を上げた。また、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、「政治センスの欠如」という評価は当らないのである。
佐藤進一 [編集]
鎌倉との関係 佐藤進一は頼朝と義経の対立について、鎌倉政権内部には関東の有力御家人を中心とする「東国独立派」と、頼朝側近と京下り官僚ら「親京都派」が並立していたことが原因であると主張している。義経は頼朝の弟であり、平家追討の搦手大将と在京代官に任じられるなど、側近の中でも最も重用された。上洛後は朝廷との良好な関係を構築するため、武士狼藉停止に従事しており、頼朝の親京都政策の中心人物であった。その後、関東の有力御家人で編成された範頼軍が半年かかっても平家を倒せない中、義経は西国の水軍を味方に引き入れることで約2箇月で平家を滅ぼした。この結果、政策決定の場でも論功行賞の配分でも親京都派の発言力が強まった。しかし、東国独立派は反発し、親京都政策の急先鋒であった義経を糾弾した。頼朝は支持基盤である有力御家人を繋ぎ止めるため、義経に与えた所領を没収して御家人たちに分け与えた。合戦を勝利に導いたにもかかわらず失脚させられた義経は、西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたのである。
上横手雅敬 [編集]

上横手雅敬は鎌倉幕府編纂である『吾妻鏡』に疑問を呈し、義経の無断任官問題が老獪な後白河が義経を利用して頼朝との離反を計り、義経がそれに乗せられた結果であるとする通説を批判している(上横手 [1978]、上横手ら [2005]) 。
任官問題 頼朝が義経を平家追討に派遣しなかったのは、無断任官に対する制裁などではなく、京都の治安維持に義経が必要であり公家側の強い要望があったからである。後白河は義経の治安維持活動に期待して検非違使・左衛門尉に任じた。しかしその結果、義経は後白河の側近に編成された事になり、幕府への奉仕が不可能になったため、それが頼朝の怒りを招いたのである。さらに壇ノ浦合戦後、義経を鎌倉で拘束せず京都へ帰したのは、院御厩司に補され院の側近となった義経を利用して後白河を挑発するためであった。頼朝は後白河を頼朝追討の宣旨を出さざるを得ないように追い込んだ結果、多くの政治的要求を突きつける事に成功したのである。 判官贔屓と吾妻鏡 また伝説の義経像には陰影があり感傷的であるが、実像に近いと思われる『平家物語』の義経像は明るく闊達な勇者であり、何の陰りもない。ところが幕府編纂の『吾妻鏡』は、反逆者であるはずの義経に対して非常に同情的であり、義経の心情に立ち入っている記述が多く見られ、「判官贔屓」の度合いが強い。頼朝については弟達への冷酷さを隠そうとはせず、静御前の舞の場面では、凛然たる静と政子に対し、狭量で頑迷な頼朝という描写は悪意的なものがある。また、義経を讒言した梶原景時を悪人として断じている。景時は北条氏によって幕府から追放された人物である。『吾妻鏡』は「判官贔屓」の構図を作り、源氏から政権を奪った北条氏の立場を正当化していると見られる。
元木泰雄 [編集]

元木泰雄は従来、概ねその記述を信用できると考えられていた『吾妻鏡』について近年著しくすすんだ史料批判と、『玉葉』など同時代の史料を丹念に突き合わせる作業によって、新しい義経像を提示している(元木 [2007])。
頼朝との関係・父子の義 挙兵当時の頼朝は自らの所領や子飼いの武士団もなく、独立心の強い東国武士達が自らの権益を守るために担いだ存在であった。それだけに、わずかな郎党を伴ったに過ぎないとはいえ、自らの右腕ともなり得る弟義経の到来は大きな喜びであった。以後、義経は「御曹司」と呼ばれるが、これは『玉葉』に両者は「父子之義」とあるように頼朝の養子としてその保護下に入ったことを意味し、場合によってはその後継者ともなり得る存在になった(当時、頼朝の嫡子頼家はまだ産まれていなかった)とともに、「父」頼朝に従属する立場に置かれたと考えられる。 頼朝代官として・京都守護 義仲追討の出陣が義経に廻ってきたのは、東国武士たちが所領の拡大と関係のない出撃に消極的だったためである。義経・範頼はいずれも少人数の軍勢を率いて鎌倉を出立し、途中で現地の武士を組織化することで義仲との対決を図った。特に入京にあたっては、法住寺合戦で義仲と敵対した京武者たちの役割が大きかった。一ノ谷の戦いも、範頼・義経に一元的に統率された形で行われた訳ではなく、独立した各地源氏一門や京武者たちとの混成軍という色彩が強かった。 合戦後の義経は疲弊した都の治安回復に努めた。代わりに平氏追討のために東国武士たちと遠征した範頼は、長期戦を選択したことと合わせ進撃が停滞し、士気の低下も目立つようになった。これに危機感を抱いた頼朝は、短期決戦もやむなしと判断し義経を起用、義経は見事にこれに応え、西国武士を組織し、屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡に追い込んだ。これは従軍してきた東国武士たちにとって、戦功を立てる機会を奪われたことを意味し、義経に対する憤懣を拡大する副産物を産み、頼朝を困惑させた。 決裂と転落・伝説の始まり 頼朝は戦後処理の過程で、義経に伊予守推挙という最高の栄誉を与える代わりに、鎌倉に召喚し自らの統制下に置く、という形で事態を収拾しようと考えた。だがその思惑は外れた。義経は、平氏滅亡後直後に法皇から院の親衛隊長とも言うべき院御厩司に補任され、検非違使・左兵衛尉を伊予守と兼務し続け、引き続き京に留まった。後白河は独自の軍事体制を構築するために、義経を活用したのである。治天の君の権威を背景に「父」に逆らった義経。両者の関係はここで決定的な破綻を迎える。 義経は頼朝追討の院宣を得たにもかかわらず、呼応する武士団はほとんど現れず、急速に没落した。既に頼朝は各地の武士に対する恩賞を与えるなど果断な処置を講じており、入京以後の義経に協力してきた京武者たちも、恩賞を与える事が出来ない義経には与しなかった。都の復興に尽力し「義士」と称えられた義経がこうした形で劇的に没落したことが京の人々に強い印象を与え、伝説化の一歩となった。 退去した義経らに代わって頼朝の代官として入京し、朝廷に介入を行ったのは、かつての弟たちではなく、頼朝の岳父である北条時政であった。未だ幼年である頼家の外祖父であり、嫡男義時が戦功を義経に奪われるなど、時政は義経に強い敵意を抱いていたと考えられる。その没落によって、時政は頼朝後継者の外戚としての地位を決定付け、勢力拡大の端緒を切り開くことができたのである。
Date: 2012/01/15/01:43:01   No.62

Re:『平家物語』(へいけものがたり)
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菱沼一憲 [編集]

菱沼一憲(『』国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書(菱沼 [2005])で以下の説を述べている。
任官問題 頼朝との対立の原因については、確かに、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)八月十七日条には、同年8月6日、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、8月3日、頼朝は義経に伊勢の平信兼追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、同月26日、義経は平氏追討使の官符を賜っている。源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同29日なので、それより早い。つまり、義経が平氏追討使を猶予された記録はないのである。よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。 戦術家として 義経は優れた戦略家であり戦術家であった。どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。 一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。また、義経自身の報告によると、西の一ノ谷口から攻め入っているのであり、僅かな手勢で断崖を駆け下りるという無謀な作戦は実施していない。 屋島の戦いでは、水軍を味方に付けて兵糧・兵船を確保し、四国の反平家勢力と連絡を取り合うなど、1箇月かけて周到に準備している。そして、義経が陸から、梶原景時が海から屋島を攻めるという作戦を立てていたのであり、景時が止めるのも聞かずに嵐の海に漕ぎ出したわけではない。 壇ノ浦の戦いの前にも、水軍を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を奪い、軍備を整えるのに1箇月を要している。また、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平家方も応戦するはずである。当時、平家方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである。そもそも当時の合戦にルールは存在せず(厳密に言うならば、武士が私的な理由、所領問題や名誉に関わる問題で、自力・当事者間で解決しようとして合戦に及ぶ場合には一騎打ちや合戦を行う場所の指定などがあったことが『今昔物語集』などで確認できる)、義経の勝因を当時としては卑怯な戦法にある、と非難することに対する反論もある。 義経は頼朝の代官として、平家追討という軍務を遂行しつつ、朝廷との良好な関係を構築するという相反する任務をこなし、軍事・政治の両面で成果を上げた。また、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、「政治センスの欠如」という評価は当らないのである。
佐藤進一 [編集]
鎌倉との関係 佐藤進一は頼朝と義経の対立について、鎌倉政権内部には関東の有力御家人を中心とする「東国独立派」と、頼朝側近と京下り官僚ら「親京都派」が並立していたことが原因であると主張している。義経は頼朝の弟であり、平家追討の搦手大将と在京代官に任じられるなど、側近の中でも最も重用された。上洛後は朝廷との良好な関係を構築するため、武士狼藉停止に従事しており、頼朝の親京都政策の中心人物であった。その後、関東の有力御家人で編成された範頼軍が半年かかっても平家を倒せない中、義経は西国の水軍を味方に引き入れることで約2箇月で平家を滅ぼした。この結果、政策決定の場でも論功行賞の配分でも親京都派の発言力が強まった。しかし、東国独立派は反発し、親京都政策の急先鋒であった義経を糾弾した。頼朝は支持基盤である有力御家人を繋ぎ止めるため、義経に与えた所領を没収して御家人たちに分け与えた。合戦を勝利に導いたにもかかわらず失脚させられた義経は、西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたのである。
Date: 2012/01/15/01:43:59   No.63

Re:『平家物語』(へいけものがたり)
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上横手雅敬 [編集]

上横手雅敬は鎌倉幕府編纂である『吾妻鏡』に疑問を呈し、義経の無断任官問題が老獪な後白河が義経を利用して頼朝との離反を計り、義経がそれに乗せられた結果であるとする通説を批判している(上横手 [1978]、上横手ら [2005]) 。
任官問題 頼朝が義経を平家追討に派遣しなかったのは、無断任官に対する制裁などではなく、京都の治安維持に義経が必要であり公家側の強い要望があったからである。後白河は義経の治安維持活動に期待して検非違使・左衛門尉に任じた。しかしその結果、義経は後白河の側近に編成された事になり、幕府への奉仕が不可能になったため、それが頼朝の怒りを招いたのである。さらに壇ノ浦合戦後、義経を鎌倉で拘束せず京都へ帰したのは、院御厩司に補され院の側近となった義経を利用して後白河を挑発するためであった。頼朝は後白河を頼朝追討の宣旨を出さざるを得ないように追い込んだ結果、多くの政治的要求を突きつける事に成功したのである。 判官贔屓と吾妻鏡 また伝説の義経像には陰影があり感傷的であるが、実像に近いと思われる『平家物語』の義経像は明るく闊達な勇者であり、何の陰りもない。ところが幕府編纂の『吾妻鏡』は、反逆者であるはずの義経に対して非常に同情的であり、義経の心情に立ち入っている記述が多く見られ、「判官贔屓」の度合いが強い。頼朝については弟達への冷酷さを隠そうとはせず、静御前の舞の場面では、凛然たる静と政子に対し、狭量で頑迷な頼朝という描写は悪意的なものがある。また、義経を讒言した梶原景時を悪人として断じている。景時は北条氏によって幕府から追放された人物である。『吾妻鏡』は「判官贔屓」の構図を作り、源氏から政権を奪った北条氏の立場を正当化していると見られる。
元木泰雄 [編集]

元木泰雄は従来、概ねその記述を信用できると考えられていた『吾妻鏡』について近年著しくすすんだ史料批判と、『玉葉』など同時代の史料を丹念に突き合わせる作業によって、新しい義経像を提示している(元木 [2007])。
頼朝との関係・父子の義 挙兵当時の頼朝は自らの所領や子飼いの武士団もなく、独立心の強い東国武士達が自らの権益を守るために担いだ存在であった。それだけに、わずかな郎党を伴ったに過ぎないとはいえ、自らの右腕ともなり得る弟義経の到来は大きな喜びであった。以後、義経は「御曹司」と呼ばれるが、これは『玉葉』に両者は「父子之義」とあるように頼朝の養子としてその保護下に入ったことを意味し、場合によってはその後継者ともなり得る存在になった(当時、頼朝の嫡子頼家はまだ産まれていなかった)とともに、「父」頼朝に従属する立場に置かれたと考えられる。 頼朝代官として・京都守護 義仲追討の出陣が義経に廻ってきたのは、東国武士たちが所領の拡大と関係のない出撃に消極的だったためである。義経・範頼はいずれも少人数の軍勢を率いて鎌倉を出立し、途中で現地の武士を組織化することで義仲との対決を図った。特に入京にあたっては、法住寺合戦で義仲と敵対した京武者たちの役割が大きかった。一ノ谷の戦いも、範頼・義経に一元的に統率された形で行われた訳ではなく、独立した各地源氏一門や京武者たちとの混成軍という色彩が強かった。 合戦後の義経は疲弊した都の治安回復に努めた。代わりに平氏追討のために東国武士たちと遠征した範頼は、長期戦を選択したことと合わせ進撃が停滞し、士気の低下も目立つようになった。これに危機感を抱いた頼朝は、短期決戦もやむなしと判断し義経を起用、義経は見事にこれに応え、西国武士を組織し、屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅亡に追い込んだ。これは従軍してきた東国武士たちにとって、戦功を立てる機会を奪われたことを意味し、義経に対する憤懣を拡大する副産物を産み、頼朝を困惑させた。 決裂と転落・伝説の始まり 頼朝は戦後処理の過程で、義経に伊予守推挙という最高の栄誉を与える代わりに、鎌倉に召喚し自らの統制下に置く、という形で事態を収拾しようと考えた。だがその思惑は外れた。義経は、平氏滅亡後直後に法皇から院の親衛隊長とも言うべき院御厩司に補任され、検非違使・左兵衛尉を伊予守と兼務し続け、引き続き京に留まった。後白河は独自の軍事体制を構築するために、義経を活用したのである。治天の君の権威を背景に「父」に逆らった義経。両者の関係はここで決定的な破綻を迎える。 義経は頼朝追討の院宣を得たにもかかわらず、呼応する武士団はほとんど現れず、急速に没落した。既に頼朝は各地の武士に対する恩賞を与えるなど果断な処置を講じており、入京以後の義経に協力してきた京武者たちも、恩賞を与える事が出来ない義経には与しなかった。都の復興に尽力し「義士」と称えられた義経がこうした形で劇的に没落したことが京の人々に強い印象を与え、伝説化の一歩となった。 退去した義経らに代わって頼朝の代官として入京し、朝廷に介入を行ったのは、かつての弟たちではなく、頼朝の岳父である北条時政であった。未だ幼年である頼家の外祖父であり、嫡男義時が戦功を義経に奪われるなど、時政は義経に強い敵意を抱いていたと考えられる。その没落によって、時政は頼朝後継者の外戚としての地位を決定付け、勢力拡大の端緒を切り開くことができたのである。
Date: 2012/01/15/01:44:43   No.64

Re:『平家物語』(へいけものがたり)
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1.^ 義経の少年期を記した「牛若奥州下りの事」の部分は金刀比羅宮本にはなく、学習院本、京師本による。
2.^ この時の常盤の逃亡やその後の話は『平治物語』や『義経記』などの軍記物に詳しいが軍記物の性格上どこまでが事実を語っているかの判定が難しい。
3.^ 軍記物や伝説によると11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知ると、僧になる事を拒否して鞍馬山を駆け回り、武芸に励んだ鞍馬山で天狗の面を被った落人から剣術の手解きを受けたとされている。
4.^ 藤原秀衡の庇護を得たことについて、伝承によれば遮那王16歳の時に、金売吉次という金商人の手配によったというが、この人物は当時多くいた奥州と都を行き来する商人達を元にした虚構の人物と思われる。
5.^ 『平家物語』『源平盛衰記』による。『吾妻鏡』寿永3年2月7日条でも、義経が精兵70騎を率いて鵯越から攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしたとされている。ただし近年、この「戦い」において義経が果たした役割や、「逆落とし」が実際にあったか等については、様々な異論も提示されている。詳細は一ノ谷の戦い参照。
6.^ 『吾妻鏡』6月21日条には、義経は強く任官を望んでいたが、頼朝はあえて許さなかった旨の記載がある。この人事は知行国主頼朝の下にあって兵糧徴収を行なう任務がある範頼らと、在京して平氏との最前線に位置する義経との役割の差であったとみなす説がある(元木 [2007])。
7.^ なお『吾妻鏡』によると義経の西国出陣の停止は次のような理由になっている。頼朝の推挙を得ずに後白河によって左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。鎌倉には「これは自分が望んだものではないが、法皇が度々の勲功を無視できないとして強いて任じられたので固辞する事ができなかった」と報告。頼朝は「意志に背く事は今度ばかりではない」と激怒して義経を平氏追討から外してしまう。しかし、最近の研究によると義経が西国へ出陣しなかったのは三日平氏の乱の影響の為であって、任官はこの時期にはさほど問題となっていなかったのではないかという見解がある(元木 [2007]、菱沼 [2005])。
8.^ 従来はこの出陣は『吾妻鏡』元暦2年(1185年)4月21日条、5月5日条の記載に基づき頼朝の命令によって行なわれたとみなされていた。しかし下記のことからこれに疑義を示す見解が強まっている。『吾妻鏡』元暦2年正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』正月10日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある(宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554、1998年)。
9.^ 『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。義経が戦の作法を無視して、水手と梶取を射殺した話はドラマや小説等によく見られるが、『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、もはや大勢が決した「先帝身投」の段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や梶取を射殺し、斬り殺したと描かれている。なお安田元久は、「このとき義経は、当時としては破天荒の戦術をとった。すなわち彼は部下に命じて、敵の戦闘員には目もくれず、兵船をあやつる水手・梶取のみを目標に矢を射かけさせたのである」(『日本の武将7 源義経』人物往来社、1966年)という独自の見解を示している。根拠が不明であり仮説・推測の域を出ていないが、非戦闘員を射殺する義経の卑怯な戦法という解釈はここから生まれたと思われる。
10.^ a b 「判官どのは君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにもかかわらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。自分は君の厳命を承っているものですから、判官殿の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。幸い合戦も勝利した事なので早く関東へ帰りたいと思います」
11.^ 延慶本『平家物語』によれば一回鎌倉に入って頼朝と対面したことになっている。
12.^ 近年の研究では、義経が平家追討を外されたのは京都の治安維持のためであり、『吾妻鏡』が前年7月の検非違使任官が頼朝との対立の原因としているのは誤りであるとの見方がされている(上横手ら [2004] 上横手雅敬,p.43-44、元木 [2007] p.129-130,三日平氏の乱参照)。『玉葉』は元暦2年6月30日条に「九郎に賞無きは如何、定めて深き由緒あるか」と恩賞の不平等を書いているが、頼朝は8月の除目で義経を伊予守に推挙し、相応の恩賞を用意していた。受領就任と同時に検非違使を離任するのが当時の原則であったが、義経は後白河院の慣例を無視した人事により伊予守就任後も検非違使・左衛門尉を兼帯し続け、兼実は「大夫尉を兼帯の条、未曾有、未曾有」と書いている。元木は義経の鎌倉召還が不可能になった文治元年8月の「検非違使留任」が両者亀裂の決定的要因であるとしている(p.154-156)。一方、本郷和人は、定まった組織ではなかった幕府創設期の頼朝にとって、御家人が朝廷に接近する自由任官は大きな問題であり、従来の説通り、任官問題は頼朝と義経の決裂、義経没落の発端であるとする(『武力による政治の誕生』講談社選書メチエ,2010年)。
13.^ 頼朝は範頼に充てた書状で平氏が三条高倉宮(以仁王)、木曽義仲が「やまの宮・鳥羽の四宮(実際には後白河法皇皇子の円恵法親王)」を殺害したこと(すなわち皇親の殺害行為)が没落につながったと捉えて安徳天皇の保護を厳命(『吾妻鏡』所収「文治元年正月六日源頼朝書状」)し、剣璽の確保についても同様の命令(『吾妻鏡』文治元年3月14日条)を出しており、義経にも同様の命令が出されたとみられている。にも拘わらず、義経は安徳天皇を保護できず、更に行方不明の宝剣に関しても宇佐八幡宮に発見の祈願を行った(『延慶本平家物語』)だけで積極的に捜索しなかった。なお、頼朝および朝廷は範頼や佐伯景弘らに命じて以後2年近くも海人を用いた宝剣捜索を行ったこと(『吾妻鏡』文治元年5月5日条および文治3年6月3日条、『玉葉』文治2年3月4日条および文治3年9月27日条)が知られている谷昇「後鳥羽天皇在位から院政期における神器政策と神器観」(初出:『古代文化』60巻2号、2008年/所収:谷『後鳥羽院政の展開と儀礼』思文閣出版、2010年)。
14.^ なお、『延慶本平家物語』によれば、義経は一旦鎌倉に入って頼朝と対面した後都に戻ったとされている。また、現存する「腰越状」と伝えられるものへの真偽を疑う説もある
15.^ 宣旨作成者は高階泰経、同経仲、同隆経、平親宗、小槻隆職、藤原光雅。親義経派の腹心として難波頼経、平業忠、平知康。結構衆(企てた者たち)として一条能成、中原信康、平業忠(腹心)、藤原章綱(藤原範綱)、平知康(腹心)、藤原信盛、藤原信実 (信盛の子)、藤原時成、中原信貞。
16.^ 藤原範季、藤原朝方、興福寺聖弘、鞍馬寺東光房など。
17.^ 盛嗣は屋島合戦の矢合わせでも、義経を「みなしごの稚児、金商人の従者になった小冠者」と罵っている。
18.^ 同書では母親の常盤は絶世の美女とされており(『平治物語』『義経記』)、容姿が重視されて源義朝の側室となった。父親の義朝については、面識のあった佐藤兄弟の母が義経と対面した際、「こかうの殿をおさなめによきおとこかなと思ひたてまつりしが、さうあしくこそおはすれども、その御子かとおぼゆる(亡き左馬頭殿(義朝)は幼心にもよい男だと拝見しましたが、あなたは父上に比べて見劣りするけれども、そのお子かと思われます)」と述べている。(『平治物語』京師本)
19.^ 判官(ほうがん)とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。「はんがん」とも。
20.^ 『金史別本』は金王朝の正史である『金史』の外伝とされるが、実際にはそのような書物は中国には存在しない。また沢田源内は偽家系図作りの名人であり、現代では『金史別本』は偽書であるとされる。
Date: 2012/01/15/01:46:19   No.65

Re:『平家物語』(へいけものがたり)
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1.^ 義経の少年期を記した「牛若奥州下りの事」の部分は金刀比羅宮本にはなく、学習院本、京師本による。
2.^ この時の常盤の逃亡やその後の話は『平治物語』や『義経記』などの軍記物に詳しいが軍記物の性格上どこまでが事実を語っているかの判定が難しい。
3.^ 軍記物や伝説によると11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知ると、僧になる事を拒否して鞍馬山を駆け回り、武芸に励んだ鞍馬山で天狗の面を被った落人から剣術の手解きを受けたとされている。
4.^ 藤原秀衡の庇護を得たことについて、伝承によれば遮那王16歳の時に、金売吉次という金商人の手配によったというが、この人物は当時多くいた奥州と都を行き来する商人達を元にした虚構の人物と思われる。
5.^ 『平家物語』『源平盛衰記』による。『吾妻鏡』寿永3年2月7日条でも、義経が精兵70騎を率いて鵯越から攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしたとされている。ただし近年、この「戦い」において義経が果たした役割や、「逆落とし」が実際にあったか等については、様々な異論も提示されている。詳細は一ノ谷の戦い参照。
6.^ 『吾妻鏡』6月21日条には、義経は強く任官を望んでいたが、頼朝はあえて許さなかった旨の記載がある。この人事は知行国主頼朝の下にあって兵糧徴収を行なう任務がある範頼らと、在京して平氏との最前線に位置する義経との役割の差であったとみなす説がある(元木 [2007])。
7.^ なお『吾妻鏡』によると義経の西国出陣の停止は次のような理由になっている。頼朝の推挙を得ずに後白河によって左衛門少尉と検非違使少尉(判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。鎌倉には「これは自分が望んだものではないが、法皇が度々の勲功を無視できないとして強いて任じられたので固辞する事ができなかった」と報告。頼朝は「意志に背く事は今度ばかりではない」と激怒して義経を平氏追討から外してしまう。しかし、最近の研究によると義経が西国へ出陣しなかったのは三日平氏の乱の影響の為であって、任官はこの時期にはさほど問題となっていなかったのではないかという見解がある(元木 [2007]、菱沼 [2005])。
8.^ 従来はこの出陣は『吾妻鏡』元暦2年(1185年)4月21日条、5月5日条の記載に基づき頼朝の命令によって行なわれたとみなされていた。しかし下記のことからこれに疑義を示す見解が強まっている。『吾妻鏡』元暦2年正月6日条には、範頼に宛てた同日付の頼朝書状が記載されている。その内容は性急な攻撃を控え、天皇・神器の安全な確保を最優先にするよう念を押したものだった。一方、義経が出陣したのは頼朝書状が作成された4日後であり(『吉記』『百錬抄』正月10日条)、屋島攻撃による早期決着も頼朝書状に記された長期戦構想と明らかに矛盾する。吉田経房が「郎従(土肥実平・梶原景時)が追討に向かっても成果が挙がらず、範頼を投入しても情勢が変わっていない」と追討の長期化に懸念を抱き「義経を派遣して雌雄を決するべきだ」と主張していることから考えると、屋島攻撃は義経の「自専」であり、平氏の反撃を恐れた院周辺が後押しした可能性が高い。『平家物語』でも義経は自らを「一院の御使」と名乗り、伊勢義盛も「院宣をうけ給はって」と述べている。これらのことから、頼朝の命令で義経が出陣したとするのは、平氏滅亡後に生み出された虚構であるとする見解もある(宮田敬三「元暦西海合戦試論-「範頼苦戦と義経出陣」論の再検討-」『立命館文学』554、1998年)。
9.^ 『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。義経が戦の作法を無視して、水手と梶取を射殺した話はドラマや小説等によく見られるが、『平家物語』では義経が水手・梶取を射るよう命じる場面はなく、もはや大勢が決した「先帝身投」の段階で源氏の兵が平氏の船に乗り移り、水手や梶取を射殺し、斬り殺したと描かれている。なお安田元久は、「このとき義経は、当時としては破天荒の戦術をとった。すなわち彼は部下に命じて、敵の戦闘員には目もくれず、兵船をあやつる水手・梶取のみを目標に矢を射かけさせたのである」(『日本の武将7 源義経』人物往来社、1966年)という独自の見解を示している。根拠が不明であり仮説・推測の域を出ていないが、非戦闘員を射殺する義経の卑怯な戦法という解釈はここから生まれたと思われる。
10.^ a b 「判官どのは君(頼朝)の代官として、その威光によって遣わされた御家人を従え、大勢の力によって合戦に勝利したのにもかかわらず、自分一人の手柄であるかのように考えている。平家を討伐した後は常日頃の様子を超えて猛々しく、従っている兵達はどんな憂き目にあうかと薄氷を踏む思いであり、皆真実に和順する気持ちはありません。自分は君の厳命を承っているものですから、判官殿の非違を見るごとに関東の御気色に違うのではないかと諫めようとすると、かえって仇となり、ややもすれば刑を受けるほどであります。幸い合戦も勝利した事なので早く関東へ帰りたいと思います」
11.^ 延慶本『平家物語』によれば一回鎌倉に入って頼朝と対面したことになっている。
12.^ 近年の研究では、義経が平家追討を外されたのは京都の治安維持のためであり、『吾妻鏡』が前年7月の検非違使任官が頼朝との対立の原因としているのは誤りであるとの見方がされている(上横手ら [2004] 上横手雅敬,p.43-44、元木 [2007] p.129-130,三日平氏の乱参照)。『玉葉』は元暦2年6月30日条に「九郎に賞無きは如何、定めて深き由緒あるか」と恩賞の不平等を書いているが、頼朝は8月の除目で義経を伊予守に推挙し、相応の恩賞を用意していた。受領就任と同時に検非違使を離任するのが当時の原則であったが、義経は後白河院の慣例を無視した人事により伊予守就任後も検非違使・左衛門尉を兼帯し続け、兼実は「大夫尉を兼帯の条、未曾有、未曾有」と書いている。元木は義経の鎌倉召還が不可能になった文治元年8月の「検非違使留任」が両者亀裂の決定的要因であるとしている(p.154-156)。一方、本郷和人は、定まった組織ではなかった幕府創設期の頼朝にとって、御家人が朝廷に接近する自由任官は大きな問題であり、従来の説通り、任官問題は頼朝と義経の決裂、義経没落の発端であるとする(『武力による政治の誕生』講談社選書メチエ,2010年)。
Date: 2012/01/15/01:46:55   No.66

Re:『平家物語』(へいけものがたり)
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13.^ 頼朝は範頼に充てた書状で平氏が三条高倉宮(以仁王)、木曽義仲が「やまの宮・鳥羽の四宮(実際には後白河法皇皇子の円恵法親王)」を殺害したこと(すなわち皇親の殺害行為)が没落につながったと捉えて安徳天皇の保護を厳命(『吾妻鏡』所収「文治元年正月六日源頼朝書状」)し、剣璽の確保についても同様の命令(『吾妻鏡』文治元年3月14日条)を出しており、義経にも同様の命令が出されたとみられている。にも拘わらず、義経は安徳天皇を保護できず、更に行方不明の宝剣に関しても宇佐八幡宮に発見の祈願を行った(『延慶本平家物語』)だけで積極的に捜索しなかった。なお、頼朝および朝廷は範頼や佐伯景弘らに命じて以後2年近くも海人を用いた宝剣捜索を行ったこと(『吾妻鏡』文治元年5月5日条および文治3年6月3日条、『玉葉』文治2年3月4日条および文治3年9月27日条)が知られている谷昇「後鳥羽天皇在位から院政期における神器政策と神器観」(初出:『古代文化』60巻2号、2008年/所収:谷『後鳥羽院政の展開と儀礼』思文閣出版、2010年)。
14.^ なお、『延慶本平家物語』によれば、義経は一旦鎌倉に入って頼朝と対面した後都に戻ったとされている。また、現存する「腰越状」と伝えられるものへの真偽を疑う説もある
15.^ 宣旨作成者は高階泰経、同経仲、同隆経、平親宗、小槻隆職、藤原光雅。親義経派の腹心として難波頼経、平業忠、平知康。結構衆(企てた者たち)として一条能成、中原信康、平業忠(腹心)、藤原章綱(藤原範綱)、平知康(腹心)、藤原信盛、藤原信実 (信盛の子)、藤原時成、中原信貞。
16.^ 藤原範季、藤原朝方、興福寺聖弘、鞍馬寺東光房など。
17.^ 盛嗣は屋島合戦の矢合わせでも、義経を「みなしごの稚児、金商人の従者になった小冠者」と罵っている。
18.^ 同書では母親の常盤は絶世の美女とされており(『平治物語』『義経記』)、容姿が重視されて源義朝の側室となった。父親の義朝については、面識のあった佐藤兄弟の母が義経と対面した際、「こかうの殿をおさなめによきおとこかなと思ひたてまつりしが、さうあしくこそおはすれども、その御子かとおぼゆる(亡き左馬頭殿(義朝)は幼心にもよい男だと拝見しましたが、あなたは父上に比べて見劣りするけれども、そのお子かと思われます)」と述べている。(『平治物語』京師本)
19.^ 判官(ほうがん)とは義経が後白河法皇より任じられた左衛門尉・検非違使を兼ねた官職名。「はんがん」とも。
20.^ 『金史別本』は金王朝の正史である『金史』の外伝とされるが、実際にはそのような書物は中国には存在しない。また沢田源内は偽家系図作りの名人であり、現代では『金史別本』は偽書であるとされる。
Date: 2012/01/15/01:47:11   No.67

Re:『平家物語』(へいけものがたり)
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出典 [編集]

1.^ 雲際寺の位牌より
2.^ 『尊卑分脈』
3.^ 『吾妻鏡』では「弱冠一人」で宿所を訪れたとあり、『源平盛衰記』では20騎、『平治物語』では100騎を率いていたとする。
4.^ a b 『玉葉』7月30日条
5.^ 『玉葉』11月2日条
6.^ 『玉葉』11月7日条
7.^ 『玉葉』12月1日条
8.^ 安田 [1966] p164.p178
9.^ 上横手ら [2004] 野口実,p.95
10.^ 大三輪ら [2005] 下山忍,p.154
11.^ 甲冑の奉納に関しては五味文彦・櫻井陽子編[2005]『平家物語図典』p.11,小学館。
12.^ 上横手ら [2004] 関俊彦 p.258

参考文献 [編集]
上横手雅敬 『源義経 源平内乱と英雄の実像』 平凡社ライブラリー 2004年。初版平凡社、1978年。
奥富敬之 『義経の悲劇』 角川選書、2004年。 ISBN 4047033707
五味文彦 『源義経』 岩波新書、2004年。
五味文彦 『義経記 物語の舞台を歩く』 山川出版社、2005年。
近藤好和 『源義経 後代の佳名を貽す者か』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2005年。
高橋富雄 『義経伝説 歴史の虚実』 中公新書、1966年。
菱沼一憲 『源義経の合戦と戦略 その伝説と虚像』 角川選書、2005年。ISBN 404703374X
保立道久 『義経の登場 王権論の視座から』 NHKブックス:日本放送出版協会 2004年
元木泰雄 『源義経』 吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2007年。
安田元久 『源義経』 新人物往来社、1966年、新装版2004年。
渡辺保 『源義経』 吉川弘文館〈人物叢書〉、初版1966年、新装版1986年。
角川源義・ 高田実 『源義経』 角川新書、1966年。講談社学術文庫 2005年。
奥富敬之編 『源義経のすべて』 新人物往来社 初版1993年。
上横手雅敬編著 『源義経 流浪の勇者』 文英堂、2004年。
大三輪龍彦編著 『義経とその時代』 山川出版社、2005年。

関連項目 [編集]
史料 『吾妻鏡』 鎌倉時代末期に編纂された歴史書
『玉葉』 当時の大臣である九条兼実の日記
古典 『平治物語』(軍記物語)作者不詳 成立 - 鎌倉時代前期
『平家物語』(軍記物語)作者不詳 成立 - 鎌倉時代前期
『源平盛衰記』(軍記物語)作者不詳 成立 - 鎌倉時代後期?
『義経記』(芸能軍記)作者不詳 成立 - 室町初期
『御曹司島渡り』 作者不詳(御伽草子)成立 - 室町初期
『天狗の内裏』 作者不詳(御伽草子)成立 - 室町初期
『壇ノ浦夜合戦記』作者不詳 成立 - 江戸中期-後期
古典芸能 八島(能)作者「世阿弥」成立 - 室町時代
船弁慶(能)作者「観世信光」成立 - 室町時代
安宅(能)作者「観世信光か?」成立 - 室町時代
鞍馬天狗(能)作者「宮増か?」成立 - 室町時代
義経千本桜(人形浄瑠璃・歌舞伎)作者「二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳」成立 - 延享4年(1747年)
一谷嫩軍記(人形浄瑠璃・歌舞伎)作者「並木宗輔他」成立 - 宝暦元年(1751年)
勧進帳(歌舞伎)作者「並木五瓶(ごへい)」成立 - 天保11年(1840年)
常陸坊海尊(演劇脚本 作者 秋元松代)成立 - 昭和32年(1957年)
史跡・祭祀
「源義経に関する史跡・祭祀一覧」を参照
大衆文化(ドラマ、小説、漫画など)
「源義経が登場する大衆文化作品一覧」を参照
その他 判官
膝丸
山本義経 - 同姓同名の武将
国鉄7100形蒸気機関車 - 名前が愛称として付された
俊乗房重源 - 鞍馬流(義経流)の門人、義経流を陰流に改めた。円明流流祖 武蔵円明流の始祖。
Date: 2012/01/15/01:48:02   No.68


源 義経(みなもと の よしつね、源義經
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源 義経(みなもと の よしつね、源義經)は、平安時代末期の武将である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の異母弟。仮名は九郎、実名は義經(義経)である。

河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り、奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、平氏との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。

その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。
Date: 2012/01/15/01:31:56   No.50

Re:源 義経(みなもと の よしつね、源義經
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清和源氏の流れを汲む河内源氏の源義朝の九男として生まれ、牛若丸(うしわかまる)と名付けられる。母常盤御前は九条院の雑仕女であった。父は平治元年(1159年)の平治の乱で謀反人となり敗死する。その係累の難を避けるため、数え年2歳の牛若は母の腕に抱かれて2人の同母兄・今若、乙若とともに逃亡し大和国(奈良県)へ逃れる。その後常盤は都に戻り、今若と乙若は出家して僧として生きることになる[注釈 2]。

後に常盤は公家の一条長成に再嫁し、牛若丸は11歳の時[2]鞍馬寺(京都市左京区)に預けられ、稚児名を遮那王(しゃなおう)と名乗った[注釈 3]。

やがて遮那王は僧になる事を拒否して鞍馬寺を出奔し、自らの手で元服を行い、奥州藤原氏宗主、鎮守府将軍藤原秀衡を頼って奥州平泉に下った。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高い[注釈 4]。『平治物語』では近江国蒲生郡鏡の宿で元服したとする。『義経記』では父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服し、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名を義経としたという
Date: 2012/01/15/01:32:54   No.51

Re:源 義経(みなもと の よしつね、源義經
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治承4年(1180年)8月17日に兄頼朝が伊豆国で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信・佐藤忠信兄弟等およそ数十騎[3]が同行した。義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たす。頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。

寿永2年(1183年)7月、木曾義仲が平氏を都落ちに追い込み入京する。後白河法皇は平氏追討の功績について、第一を頼朝、第二を義仲とするなど義仲を低く評価し[4]、頼朝の上洛に期待をかけていた。8月14日、義仲は後継天皇に自らが擁立した北陸宮を据えることを主張して、後白河の怒りを買う[4]。そして後白河が義仲の頭越しに寿永二年十月宣旨を頼朝に下したことで、両者の対立は決定的となった。頼朝は閏10月5日に鎌倉を出立するが、平頼盛から京都の深刻な食糧不足を聞くと自身の上洛を中止して、弟の義経と中原親能を代官として都へ送った[5]。『玉葉』閏10月17日条には「頼朝の弟九郎(実名を知らず)、大将軍となり数万の軍兵を卒し、上洛を企つる」とあるが、これが貴族の日記における義経の初見である。

義経と親能は11月に近江に達したが、その軍勢は500 - 600騎に過ぎず入京は困難だった[6]。そのような中で法住寺合戦が勃発し、義仲は後白河を幽閉する。京都の情勢は後白河の下北面・大江公朝らによって、伊勢国に移動していた義経・親能に伝えられた[7]。義経は飛脚を出して頼朝に事態の急変を報告し、自らは伊勢国人や和泉守・平信兼と連携して兵力の増強を図った。義経の郎党である伊勢義盛も、出自は伊勢の在地武士でこの時に義経に従ったと推測される。翌寿永3年(1184年)、範頼が東国から援軍を率いて義経と合流し、正月20日、範頼軍は近江瀬田から、義経軍は山城田原から総攻撃を開始する。義経は宇治川の戦いで志田義広の軍勢を破って入京し、敗走した義仲は粟津の戦いで討ち取られた。

この間に平氏は西国で勢力を回復し、福原(兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平氏追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦いで夜襲によって平資盛らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、一ノ谷の戦いで義経は精兵70騎を率いて、鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて平氏本陣を奇襲する。平氏軍は大混乱に陥り、鎌倉軍の大勝となった[注釈 5]。上洛の際、名前も知られていなかった義経は、義仲追討・一ノ谷の戦いの活躍によって歴史上の表舞台に登場する事となる。





『源義経請文』義経自筆(1184年)
一ノ谷の戦いの後、範頼は鎌倉へ引き上げ、義経は京に留まって都の治安維持にあたり、畿内近国の在地武士の組織化など地方軍政を行い、寺社の所領関係の裁断など民政にも関与している。元暦元年(1184年)6月、朝廷の小除目が行われ、頼朝の推挙によって範頼ら源氏3人が国司に任ぜられたが、義経は国司には任ぜられなかった[注釈 6]。義経はその後、平氏追討の為に西国に出陣することが予定されていたが8月6日、三日平氏の乱が勃発したために出陣が不可能となる。そのため西国への出陣は範頼があたることになる[注釈 7]。8月、範頼は大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡る。同時期、義経は三日平氏の乱の後処理に追われており、この最中の8月6日、後白河法皇より左衛門少尉、検非違使に任じられた。9月、義経は頼朝の周旋により河越重頼の娘(郷御前)を正室に迎えた。

一方、範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ、進軍が停滞してしまう。この状況を知った義経は後白河に西国出陣を申し出てその許可を得た[注釈 8]。元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は、暴風雨の中を少数の船で出撃。通常3日かかる距離を数時間で到着し、四国讃岐の瀬戸内海沿いにある平氏の拠点屋島を奇襲する。山や民家を焼き払い、大軍に見せかける作戦で平氏を敗走させた(屋島の戦い)。

範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平氏の背後を遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して、ついに平氏を滅ぼした[注釈 9]。宿願を果たした義経は法皇から戦勝を讃える勅使を受け、一ノ谷、屋島以上の大功を成した立役者として、平氏から取り戻した鏡璽を奉じて4月24日京都に凱旋する。
Date: 2012/01/15/01:33:38   No.52

Re:源 義経(みなもと の よしつね、源義經
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平家を滅ぼした後、義経は、兄頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。

元暦2年(1185年)4月15日、頼朝は内挙を得ずに朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月21日、平氏追討で侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から、「義経はしきりに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状[注釈 10]が頼朝に届いた。

一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた[注釈 11]。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市)満福寺に義経は留め置かれた。5月24日兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が有名な腰越状である。

義経が頼朝の怒りを買った原因は、『吾妻鏡』によると許可なく官位を受けたことのほか、平氏追討にあたって軍監として頼朝に使わされていた梶原景時の意見を聞かず、独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為をして仕事を奪い、配下の東国武士達に対してもわずかな過ちでも見逃さずこれを咎め立てするばかりか、頼朝を通さず勝手に成敗し武士達の恨みを買うなど、自専の振る舞いが目立った事によるとしている。主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な戦功は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた。

特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位に無い頼朝の存在を根本から揺るがすものだった[注釈 12]。また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で、安徳天皇や二位尼を自殺に追い込み、朝廷との取引材料と成り得た宝剣を紛失した事は頼朝の戦後構想を破壊するものであった[注釈 13]。

そして義経の兵略と声望が法皇の信用を高め、武士達の人心を集める事は、武家政権の確立を目指す頼朝にとって脅威となるものであった[8]。義経は壇ノ浦からの凱旋後、かつて平氏が院政の軍事的支柱として独占してきた院御厩司に補任され、平家の捕虜である平時忠の娘(蕨姫)を娶った。かつての平氏の伝統的地位を、義経が継承しようとした、あるいは後白河院が継承させようとした動きは、頼朝が容認出来るものではなかったのである。

結局義経は鎌倉へ入る事を許されず、6月9日に頼朝が義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と言い放った。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を重衡自身が焼き討ちにした東大寺へ送った[注釈 14]。このような最中、8月16日には、小除目があり、いわゆる源氏六名の叙位任官の一人として、伊予守を兼任する。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景時の嫡男景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏であることを理由に断った。

謀叛 [編集]





義経の一行が逃げ込んだ吉野山
10月、義経の病が仮病であり、すでに行家と同心していると判断した頼朝は義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、自ら門戸を打って出て応戦する義経に行家が加わり、合戦は襲撃側の敗北に終わった。義経は、捕らえた昌俊からこの襲撃が頼朝の命であることを聞き出すと、これを梟首し行家と共に京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して、10月18日に頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。京都周辺の武士達も義経らに与せず、逆に敵対する者も出てきた。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。

29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、11月3日義経らは西国九州の緒方氏を頼り、300騎を率いて京を落ちた。途中、摂津源氏の多田行綱らの襲撃を受け、これを撃退している(河尻の戦い)。6日に一行は摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなって摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。11月7日には、検非違使伊予守従五位下兼行左衛門少尉を解却見任。一方11月25日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。12月、さらに頼朝は、頼朝追討の宣旨作成者・親義経派の公家を解官させ[注釈 15]、義経らの追捕のためとして、諸国への守護と地頭の設置を求め、入洛させた北条時政の交渉の末、設置を認めさせた(文治の勅許)。

義経は郎党や愛妾の白拍子・静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は反鎌倉の貴族・寺社勢力[注釈 16]に匿われ京都周辺に潜伏するが、翌年の文治2年(1186年)5月に和泉国で叔父・行家が鎌倉方に討ち取られ、各地に潜伏していた郎党達も次々と発見され殺害される。そうした中、玉葉5月10日条によれば、諱を義経から義行に改名させられ、玉葉11月24日条では、さらに、義顕と改名させられた。何れも源頼朝の意向により、朝廷側からの沙汰であり、当の義経本人がこのことを認知していたか否かは不明である。そして院や貴族が義経を逃がしている事を疑う頼朝は、同年11月に「京都側が義経に味方するならば大軍を送る」と恫喝している。

京都に居られなくなった義経は、藤原秀衡を頼って奥州へ赴く。『吾妻鏡』文治3年(1187年)2月10日の記録によると、義経は追捕の網をかいくぐり、伊勢・美濃を経て奥州へ向かい、正妻と子らを伴って平泉に身を寄せた。一行は山伏と稚児の姿に身をやつしていたという。
Date: 2012/01/15/01:34:20   No.53

Re:源 義経(みなもと の よしつね、源義經
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藤原秀衡は関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年)10月29日に病没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけた。一方、義経は文治4年(1188年)2月に出羽国に出没し、鎌倉方と合戦をしている。また文治5年(1189年)1月には義経が京都に戻る意志を書いた手紙を持った比叡山の僧が捕まるなど、再起を図っている。

しかし泰衡は再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。

義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、新田高平を使者として43日間かけて鎌倉に送られた。文治5年(1189年)6月13日、首実検が和田義盛と梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。

伝承ではその後、首は藤沢に葬られ白旗神社に祀られたとされ、胴体は栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられる。また、最期の地である奥州市衣川区の雲際寺には、自害直後の義経一家の遺体が運び込まれたとされ、義経夫妻の位牌が安置されていたが、平成20年(2008年)8月6日、同寺の火災により焼失した。
Date: 2012/01/15/01:35:00   No.54

Re:源 義経(みなもと の よしつね、源義經
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1159年(平治元年)誕生。12月、平治の乱。(数え年1歳)
1160年(平治2年)父義朝敗死。(2歳)
1162年(応保2年)頃、母常盤が一条長成と再婚。(4歳)
1169年(嘉応元年)頃、鞍馬寺で稚児となる。(11歳)
1174年(承安4年)頃、鞍馬寺を出奔して奥州平泉へ下る。(16歳)
1180年(治承4年)8月、兄頼朝が挙兵。平泉を出奔して駆けつけ、10月、黄瀬川で頼朝と対面。(22歳)
1183年(寿永2年)11月、頼朝代官として上洛。(25歳)
1184年(元暦元年) 1月、源義仲を討って入京。
2月、一ノ谷の戦い。平氏追討と畿内近国の行政・軍政を担う。
7月、三日平氏の乱が発生。
8月、乱の鎮圧にあたる。左衛門尉・検非違使に任官。
9月、河越重頼の娘(郷御前)と結婚。(26歳)

1185年(文治元年) 正月、平氏追討のため西国へ出陣する。
2月、屋島の戦い。
3月、壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。
4月、京へ凱旋。
5月、平宗盛親子を鎌倉へ護送。頼朝に鎌倉入りを拒否される。腰越状。
6月、都に戻る。
8月、伊予守任官。検非違使を兼任。
10月16日、後白河法皇に頼朝追討の宣旨を要請。17日、土佐坊昌俊に襲撃される。18日、頼朝追討の宣旨が下される。
11月3日、都を落ちる。11月7日、解官。(27歳)

1186年(文治2年)逃避行。(28歳)
1187年(文治3年)2月、奥州へ落ち延びる。(29歳)
1189年(文治5年)閏4月30日、襲撃を受け衣川館で自害。(享年31 / 満30歳没)
Date: 2012/01/15/01:35:48   No.55

Re:源 義経(みなもと の よしつね、源義經
古今東西のお話      性別: 秘密   年代: ナイショ   居住地: 秘密  
義経は九郎の通称(輩行名)から明らかなように、父義朝の九男にあたる。『義経記』では実は八男だったが武名を馳せた叔父源為朝が鎮西八郎という仮名であったのに遠慮して「九郎」としたとするが、伝説の域を出ない。義朝の末子であることは確かである。

源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条能成があった。

妻には頼朝の媒酌による正室の河越重頼の娘(郷御前)、鶴岡八幡宮の舞で有名な愛妾の白拍子・静御前、平家滅亡後に平時忠が保身のために差し出したとされる時忠の娘(蕨姫)がある。子には、都落ち後の逃避行中に誕生し衣川館で義経と共に死亡した4歳の女児、静御前を母として生まれ、頼朝の命により出産後間もなく由比ヶ浜に遺棄された男児が確認される。

他には源有綱が義経の婿と称している事から、有綱の妻を義経の娘とする説もある[9]。また『清和源氏系図』に千歳丸(ちとせまる)という3歳の男子が奥州衣川で誅されたと記されており、『吾妻鏡』文治3年2月10日条に義経が奥州入りした際、「妻室男女を相具す(正室と男子と女子の子供を連れていた)」とある事から、この「男」が千歳丸に相当する可能性があるが、『吾妻鏡』で衣川で死亡した子は4歳女児のみとなっている事から、男児の存在についての真偽は不明である[10]。

人間像 [編集]

死後何百年の間にあらゆる伝説が生まれ、実像を離れた多くの物語が作られた義経であるが、以下には史料に残された義経自身の言動と、直接関わった人たちの義経評を上げる。
『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月21日条によると、奥州にいた義経が頼朝の挙兵を知って急ぎ頼朝に合流しようとした際、藤原秀衡は義経を強く引き留める。しかし義経は密かに館を逃れ出て旅立ったので、秀衡は惜しみながらも留める事を諦め、追って佐藤兄弟を義経の許に送った。
同じく『吾妻鏡』によると、養和元年(1181年)7月20日 鶴岡若宮宝殿上棟式典で、頼朝は義経に大工に賜る馬を引くよう命じた。義経が「ちょうど下手を引く者がいないから(自分の身分に釣り合う者がいない)」と言って断ると、頼朝は「畠山重忠や佐貫広綱がいる。卑しい役だと思って色々理由を付けて断るのか」と激しく叱責。義経はすこぶる恐怖し、直ぐに立って馬を引いた。
『玉葉』によると、寿永3年(1184年)2月9日一ノ谷の合戦後、義経は討ち取った平家一門の首を都大路に引き渡し獄門にかける事を奏聞するため、少数の兵で都に駆け戻る。朝廷側は平家が皇室の外戚であるため、獄門にかける事を反対するが、義経と範頼は、これは自分達の宿意(父義朝の仇討ち)であり「義仲の首が渡され、平家の首は渡さないのは全く理由が無い。何故平家に味方するのか。非常に不信である」と強硬に主張。公卿達は義経らの強い態度に押され、結局13日に平家の首は都大路を渡り獄門にかけられた。
『吉記』元暦2年(1185年)正月8日条によると、平家の残党を恐れる貴族達は、四国へ平家追討に向かう義経に都に残るよう要請するが、義経は「2,3月になると兵糧が尽きてしまう。範頼がもし引き返す事になれば、四国の武士達は平家に付き、ますます重大な事になります」と引き止める貴族達を振り切って出陣する。『吾妻鏡』によると、2月16日に屋島へ出陣する義経の宿所を訪れた公家の高階泰経(後白河院の使いだったとされる)が「自分は兵法に詳しくないが、大将たる者は先陣を競うものではなく、まず次将を送るべきではないか」と訊いた。これに対し義経は「殊ニ存念アリ、一陣ニオイテ命ヲ棄テント欲ス(特別に思う所があって、先陣において命を捨てたいと思う)」と答えて出陣した。『吾妻鏡』の筆者はこれを評し、「尤も精兵と謂うべきか(非常に強い兵士と言うべきか)」と書いている。また18日、義経は船で海を渡ろうとしたが、暴風雨が起こって船が多数破損した。兵達は船を一艘も出そうとしなかったが、義経は「朝敵を追討するのが滞るのは恐れ多い事である。風雨の難を顧みるべきではない」と言って深夜2時、暴風雨の中を少数の船で出撃し、通常3日かかる距離を4時間で到着した。
壇ノ浦の合戦後に届いた義経の専横を批判する梶原景時の書状[注釈 10]を受けて、『吾妻鏡』は「自専ノ慮ヲサシハサミ、カツテ御旨ヲ守ラズ、ヒトヘニ雅意ニマカセ、自由ノ張行ヲイタスノ間、人々恨ミヲナスコト、景時ニ限ラズ(義経はその独断専行によって景時に限らず、人々(関東武士達)の恨みを買っている)」と書いている。その一方で義経の自害の後、景時と和田義盛ら郎従20騎がその首を検分した時、「観ル者ミナ双涙ヲ拭ヒ、両衫ヲ湿ホス(見る者皆涙を流した)」とあり、義経への批判と哀惜の両面がうかがえる。
壇ノ浦合戦後、義経を密かに招いて合戦の様子を聞いた仁和寺御室の守覚法親王の記録『左記』に「彼の源延尉は、ただの勇士にあらざるなり。張良・三略・陳平・六奇、その芸を携え、その道を得るものか(義経は尋常一様でない勇士で、武芸・兵法に精通した人物)」とある。
『玉葉』・『吾妻鏡』によると、頼朝と対立した義経は文治元年(1185年)10月11日と13日に後白河院の元を訪れ、「頼朝が無実の叔父を誅しようとしたので、行家もついに謀反を企てた。自分は何とか制止しようとしたが、どうしても承諾せず、だから義経も同意してしまった。その理由は、自分は頼朝の代官として命を懸けて再三大功を立てたにもかかわらず、頼朝は特に賞するどころか自分の領地に地頭を送って国務を妨害した上、領地をことごとく没収してしまった。今や生きる望みもない。しかも自分を殺そうとする確報がある。どうせ難を逃れられないなら、墨俣辺りに向かい一矢報いて生死を決したいと思う。この上は頼朝追討の宣旨を頂きたい。それが叶わなければ両名とも自害する」と述べた。院は驚いて重ねて行家を制止するよう命じたが、16日「やはり行家に同意した。理由は先日述べた通り。今に至っては頼朝追討の宣旨を賜りたい。それが叶わなければ身の暇を賜って鎮西へ向かいたい」と述べ、天皇・法皇以下公卿らを引き連れて下向しかねない様子だったという。
追いつめられた義経が平家や木曾義仲のように狼藉を働くのではと都中が大騒ぎになったが、義経は11月2日に四国・九州の荘園支配の権限を与える院宣を得ると、3日早朝に院に使者をたて「鎌倉の譴責を逃れるため、鎮西に落ちます。最後にご挨拶したいと思いますが、武装した身なのでこのまま出発します」と挨拶して静かに都を去った。『玉葉』の著者である公家の九条兼実は頼朝派の人間であったが、義経の平穏な京都退去に対し「院中已下諸家悉く以て安穏なり。義経の所行、実に以て義士と謂ふ可きか。洛中の尊卑随喜せざるはなし(都中の尊卑これを随喜しないものはない。義経の所行、まことにもって義士というべきか)」「義経大功ヲ成シ、ソノ栓ナシトイヘドモ、武勇ト仁義トニオイテハ、後代ノ佳名ヲノコスモノカ、歎美スベシ、歎美スベシ(義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものであろう。賞賛すべきである)」と褒め称えている。
Date: 2012/01/15/01:36:28   No.56

Re:源 義経(みなもと の よしつね、源義經
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義経は九郎の通称(輩行名)から明らかなように、父義朝の九男にあたる。『義経記』では実は八男だったが武名を馳せた叔父源為朝が鎮西八郎という仮名であったのに遠慮して「九郎」としたとするが、伝説の域を出ない。義朝の末子であることは確かである。

源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条能成があった。

妻には頼朝の媒酌による正室の河越重頼の娘(郷御前)、鶴岡八幡宮の舞で有名な愛妾の白拍子・静御前、平家滅亡後に平時忠が保身のために差し出したとされる時忠の娘(蕨姫)がある。子には、都落ち後の逃避行中に誕生し衣川館で義経と共に死亡した4歳の女児、静御前を母として生まれ、頼朝の命により出産後間もなく由比ヶ浜に遺棄された男児が確認される。

他には源有綱が義経の婿と称している事から、有綱の妻を義経の娘とする説もある[9]。また『清和源氏系図』に千歳丸(ちとせまる)という3歳の男子が奥州衣川で誅されたと記されており、『吾妻鏡』文治3年2月10日条に義経が奥州入りした際、「妻室男女を相具す(正室と男子と女子の子供を連れていた)」とある事から、この「男」が千歳丸に相当する可能性があるが、『吾妻鏡』で衣川で死亡した子は4歳女児のみとなっている事から、男児の存在についての真偽は不明である
Date: 2012/01/15/01:37:53   No.57

Re:源 義経(みなもと の よしつね、源義經
古今東西のお話      性別: 秘密   年代: ナイショ   居住地: 秘密  
死後何百年の間にあらゆる伝説が生まれ、実像を離れた多くの物語が作られた義経であるが、以下には史料に残された義経自身の言動と、直接関わった人たちの義経評を上げる。
『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月21日条によると、奥州にいた義経が頼朝の挙兵を知って急ぎ頼朝に合流しようとした際、藤原秀衡は義経を強く引き留める。しかし義経は密かに館を逃れ出て旅立ったので、秀衡は惜しみながらも留める事を諦め、追って佐藤兄弟を義経の許に送った。
同じく『吾妻鏡』によると、養和元年(1181年)7月20日 鶴岡若宮宝殿上棟式典で、頼朝は義経に大工に賜る馬を引くよう命じた。義経が「ちょうど下手を引く者がいないから(自分の身分に釣り合う者がいない)」と言って断ると、頼朝は「畠山重忠や佐貫広綱がいる。卑しい役だと思って色々理由を付けて断るのか」と激しく叱責。義経はすこぶる恐怖し、直ぐに立って馬を引いた。
『玉葉』によると、寿永3年(1184年)2月9日一ノ谷の合戦後、義経は討ち取った平家一門の首を都大路に引き渡し獄門にかける事を奏聞するため、少数の兵で都に駆け戻る。朝廷側は平家が皇室の外戚であるため、獄門にかける事を反対するが、義経と範頼は、これは自分達の宿意(父義朝の仇討ち)であり「義仲の首が渡され、平家の首は渡さないのは全く理由が無い。何故平家に味方するのか。非常に不信である」と強硬に主張。公卿達は義経らの強い態度に押され、結局13日に平家の首は都大路を渡り獄門にかけられた。
『吉記』元暦2年(1185年)正月8日条によると、平家の残党を恐れる貴族達は、四国へ平家追討に向かう義経に都に残るよう要請するが、義経は「2,3月になると兵糧が尽きてしまう。範頼がもし引き返す事になれば、四国の武士達は平家に付き、ますます重大な事になります」と引き止める貴族達を振り切って出陣する。『吾妻鏡』によると、2月16日に屋島へ出陣する義経の宿所を訪れた公家の高階泰経(後白河院の使いだったとされる)が「自分は兵法に詳しくないが、大将たる者は先陣を競うものではなく、まず次将を送るべきではないか」と訊いた。これに対し義経は「殊ニ存念アリ、一陣ニオイテ命ヲ棄テント欲ス(特別に思う所があって、先陣において命を捨てたいと思う)」と答えて出陣した。『吾妻鏡』の筆者はこれを評し、「尤も精兵と謂うべきか(非常に強い兵士と言うべきか)」と書いている。また18日、義経は船で海を渡ろうとしたが、暴風雨が起こって船が多数破損した。兵達は船を一艘も出そうとしなかったが、義経は「朝敵を追討するのが滞るのは恐れ多い事である。風雨の難を顧みるべきではない」と言って深夜2時、暴風雨の中を少数の船で出撃し、通常3日かかる距離を4時間で到着した。
壇ノ浦の合戦後に届いた義経の専横を批判する梶原景時の書状[注釈 10]を受けて、『吾妻鏡』は「自専ノ慮ヲサシハサミ、カツテ御旨ヲ守ラズ、ヒトヘニ雅意ニマカセ、自由ノ張行ヲイタスノ間、人々恨ミヲナスコト、景時ニ限ラズ(義経はその独断専行によって景時に限らず、人々(関東武士達)の恨みを買っている)」と書いている。その一方で義経の自害の後、景時と和田義盛ら郎従20騎がその首を検分した時、「観ル者ミナ双涙ヲ拭ヒ、両衫ヲ湿ホス(見る者皆涙を流した)」とあり、義経への批判と哀惜の両面がうかがえる。
壇ノ浦合戦後、義経を密かに招いて合戦の様子を聞いた仁和寺御室の守覚法親王の記録『左記』に「彼の源延尉は、ただの勇士にあらざるなり。張良・三略・陳平・六奇、その芸を携え、その道を得るものか(義経は尋常一様でない勇士で、武芸・兵法に精通した人物)」とある。
『玉葉』・『吾妻鏡』によると、頼朝と対立した義経は文治元年(1185年)10月11日と13日に後白河院の元を訪れ、「頼朝が無実の叔父を誅しようとしたので、行家もついに謀反を企てた。自分は何とか制止しようとしたが、どうしても承諾せず、だから義経も同意してしまった。その理由は、自分は頼朝の代官として命を懸けて再三大功を立てたにもかかわらず、頼朝は特に賞するどころか自分の領地に地頭を送って国務を妨害した上、領地をことごとく没収してしまった。今や生きる望みもない。しかも自分を殺そうとする確報がある。どうせ難を逃れられないなら、墨俣辺りに向かい一矢報いて生死を決したいと思う。この上は頼朝追討の宣旨を頂きたい。それが叶わなければ両名とも自害する」と述べた。院は驚いて重ねて行家を制止するよう命じたが、16日「やはり行家に同意した。理由は先日述べた通り。今に至っては頼朝追討の宣旨を賜りたい。それが叶わなければ身の暇を賜って鎮西へ向かいたい」と述べ、天皇・法皇以下公卿らを引き連れて下向しかねない様子だったという。
追いつめられた義経が平家や木曾義仲のように狼藉を働くのではと都中が大騒ぎになったが、義経は11月2日に四国・九州の荘園支配の権限を与える院宣を得ると、3日早朝に院に使者をたて「鎌倉の譴責を逃れるため、鎮西に落ちます。最後にご挨拶したいと思いますが、武装した身なのでこのまま出発します」と挨拶して静かに都を去った。『玉葉』の著者である公家の九条兼実は頼朝派の人間であったが、義経の平穏な京都退去に対し「院中已下諸家悉く以て安穏なり。義経の所行、実に以て義士と謂ふ可きか。洛中の尊卑随喜せざるはなし(都中の尊卑これを随喜しないものはない。義経の所行、まことにもって義士というべきか)」「義経大功ヲ成シ、ソノ栓ナシトイヘドモ、武勇ト仁義トニオイテハ、後代ノ佳名ヲノコスモノカ、歎美スベシ、歎美スベシ(義経は大功を成し、その甲斐もなかったが、武勇と仁義においては後代の佳名を残すものであろう。賞賛すべきである)」と褒め称えている。
Date: 2012/01/15/01:39:02   No.58

Re:源 義経(みなもと の よしつね、源義經
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義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した史料や、生前の義経自身を描いた確かな絵画は存在しない。義経肖像としてよく用いられる中尊寺所蔵の画像は弁慶と対になっており、『義経記』で藤原泰衡に襲撃される場面を描いたものであるが、これは戦国時代、もしくは江戸時代の作とされ、本人の実際の姿を描いたものではない。

身長に関しては義経が奉納したとされる大山祇神社の甲冑を元に推測すると150cm前後くらいではないかと言われている。しかし甲冑が義経奉納という根拠はなく、源平時代のものとするには特殊な部分が多く、確かな事は不明である[11]。

義経の死後まもない時代に成立したとされる『平家物語』では、平氏の武士・越中次郎兵衛盛嗣が「九郎は色白うせいちいさきが、むかばのことにさしいでてしるかんなるぞ」(九郎は色白で背の低い男だが、前歯がとくに差し出ていてはっきりわかるというぞ)と伝聞の形で述べている。これは「鶏合」の段で、壇ノ浦合戦を前に平氏の武士達が敵である源氏の武士を貶めて、戦意を鼓舞する場面に出てくるものである[注釈 17]。また「弓流」の段で、海に落とした自分の弓を拾った逸話の際に「弱い弓」と自ら述べるなど、肉体的には非力である描写がされている。

『義経記』では、楊貴妃や松浦佐用姫にたとえられ、女と見まごうような美貌と書かれている。その一方で平家物語をそのまま引用したと思われる矛盾した記述もある。『源平盛衰記』では「色白で背が低く、容貌優美で物腰も優雅である」という記述の後に、『平家物語』と同じく「木曾義仲より都なれしているが、平家の選び屑にも及ばない」と続く。『平治物語』の「牛若奥州下りの事」の章段では、義経と対面した藤原秀衡の台詞として「みめよき冠者どのなれば、姫を持っている者は婿にも取りましょう」と述べている[注釈 18]。

江戸時代には猿楽(現能)や歌舞伎の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹司義経の印象が定着していった。
Date: 2012/01/15/01:39:52   No.59


佐々木 小次郎
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佐々木 小次郎(ささき こじろう、? - 慶長17年4月13日(1612年5月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の剣客。号は巌流(岸流、岸柳、岩龍とも)。ただし、名前についての詳細は不明な点も多い。宮本武蔵との巌流島の決闘で知られる。
Date: 2012/01/09/03:29:43   No.43

Re:佐々木 小次郎
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小次郎の出自に関しては不明な点が多い。出身については、豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)の有力豪族佐々木氏のもとに生まれたという説がある他、1776年(安永5年)に熊本藩の豊田景英が編纂した『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)と記されており、秘剣「燕返し」は福井にある一乗滝で身につけたとされている。生年は天正もしくは永禄年間とされる。姓は佐々木の他に『丹治峰均筆記』では「津田」と記されている。

中条流富田勢源、あるいは富田勢源門下の鐘捲流の鐘捲自斎の弟子とされている。『二天記』には巌流島での決闘時の年齢は十八歳であったと記されているが、このような記述は『二天記』の元になった『武公伝』にはなく、巌流が十八歳で流派を立てたという記述を書き改めたものである。また生前の勢源と出会うには、決闘時に最低でも50歳以上、直弟子であれば相当の老人と考えられ、「七」の誤記ではないかとも言われている。鐘捲自斎の弟子であったとすればそれほどの老齢ではないにせよ、宮本武蔵よりは年長であった可能性が高い。

初め、安芸国の毛利氏に仕える。武者修業のため諸国を遍歴し、「燕返し」の剣法を案出、「巌流」と呼ばれる流派を創始。小倉藩の剣術師範となる。1612年(慶長17年)刃長三尺三寸(約1メートル)の野太刀「備前長船長光」、通称「物干し竿(この呼び名は「長いだけで斬るには向かない」とする侮蔑的な意味合いがあるため、後世につけられたとみられる)」を使用して、武蔵と巌流島で決闘し、敗死したとされる。
Date: 2012/01/09/03:30:36   No.44

Re:佐々木 小次郎
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多くの史料では上記のように巌流島の決闘で小次郎は死んだとされている。一方、豊前国の小倉藩(当時は細川氏)家老、門司城代の沼田延元の家人による文書『沼田家記』によると、決闘で武蔵は小次郎を殺すまではしておらず、敗北した小次郎はしばらく後に息を吹き返したと記されている。しかし、その後武蔵の弟子らに殺されたとある。また、小次郎の弟子らも決闘で負けたことを恨み武蔵を襲撃するが、沼田の助けにより武蔵は無事落ち延びたとある。決闘に至った理由も、弟子らが互いの師の優劣で揉めたことが発端と記されており、過激な門人らの争いが一連の騒動を引き起こしたとされている。

吉川英治の小説『宮本武蔵』では、周防国岩国(現山口県岩国市)の出身とされている。また、小次郎を主人公とした小説としては、幾度も映画化された村上元三作の『佐々木小次郎』などがある。なお、テレビ朝日系列で放送された「巌流島ミステリー・武蔵が消した小次郎の真実(2007年11月12日放送)」では、小説『宮本武蔵』にて燕返しが編み出された場面とする錦帯橋が巌流島の決闘の60年後に作られたことや、その燕返しは虎切と呼ばれる剣法の型であることなど、吉川の創作部分が紹介されていた。番組では、岩国市の吉香公園、前述の一乗滝に銅像があること、山口県阿武町大字福田には小次郎のものと伝承される墓があることも紹介された。
Date: 2012/01/09/03:31:23   No.45


平 清盛
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平 清盛(たいら の きよもり)は、平安時代末期の武将・公卿・政治家である。

伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終的な勝利者となり、武士では初めて太政大臣に任ぜられる。娘の徳子を高倉天皇に入内させ「平氏にあらずんば人にあらず」(『平家物語』[1])と言われる時代を築いた(平氏政権)。

平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立し、治承三年の政変で法皇を幽閉して徳子の産んだ安徳天皇を擁し政治の実権を握るが、平氏の独裁は貴族・寺社・武士などから大きな反発を受け、源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、熱病で没した
Date: 2012/01/08/21:02:50   No.35

Re:平 清盛
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元永元年(1118年)、伊勢平氏の頭領である平忠盛の嫡子として伊勢産品(うぶしな、現在の三重県津市産品)で生まれる。生母は不明だが祇園女御の妹という説がある。母の死後、祇園女御の猶子になったという。大治4年(1129年)正月に12歳で従五位下左兵衛佐に叙任されたことについて、藤原宗忠は「人耳目を驚かすか、言ふに足らず」と驚愕している(『中右記』大治4年正月24日条)。武士の任官は三等官の尉から始まるのが通常で、二等官の佐に任じられるのは極めて異例だったためである。清盛は同年3月に石清水臨時祭の舞人に選ばれるが(『中右記』3月16日条)、清盛の馬の口取を祇園女御の養子とされる内大臣・源有仁の随身が勤めていることから、幼少期の清盛は祇園女御の庇護の下で成長したと思われる。
Date: 2012/01/08/21:03:33   No.36

Re:平 清盛
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祇園女御の庇護下で育ったことから、清盛の実父は白河法皇であるとの説もある。清盛が院近臣家の出身にもかかわらず、後に皇族か摂関、清華でなければ任命されない太政大臣に任命されたことから、当時の朝廷が非公式にではあるがこの話を事実として採用していたとの主張もある(元木泰雄)。

若い頃は、鳥羽法皇第一の寵臣・藤原家成の邸に出入りしていたという。藤原家成は、清盛の継母・池禅尼の従兄弟だった。高階基章の娘との間に重盛・基盛が生まれるが、死別したと推測される。保延3年(1137年)忠盛が熊野本宮を造営した功により、清盛は肥後守に任じられる。久安3年(1147年)、継室に迎えた平時子との間に宗盛が生まれる。時子の父・平時信は鳥羽法皇の判官代として、藤原顕頼・信西とともに院庁の実務を担当していた。この年6月15日、清盛は祇園社に赴くが郎等の武具を咎めた神人と小競り合いとなり、郎等の放った矢が宝殿に当たるという事件が発生した(祇園闘乱事件)。祇園社を末社とする延暦寺は忠盛・清盛の配流を要求して強訴するが、鳥羽法皇は延暦寺の攻勢から忠盛・清盛を保護し、清盛の罪を贖銅三十斤という罰金刑にとどめた。その後、清盛に代わり異母弟の家盛が常陸介・右馬頭に任じられ頭角を現す。しかし、久安5年(1149年)家盛は急死したため、清盛の嫡流としての地位は磐石となる。安芸守に任じられて瀬戸内海の制海権を手にすることで莫大な利益をあげ、父と共に西国へと勢力を拡大した。またその頃より宮島の厳島神社を信仰するようになり、仁平3年(1153年)、忠盛の死後に平氏一門の棟梁となる
Date: 2012/01/08/21:04:04   No.37

Re:平 清盛
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保元元年(1156年)の保元の乱では池禅尼が崇徳上皇の子・重仁親王の乳母だったため清盛の立場は難しいものであったが、一門の結束につとめ後白河天皇側について勝利をもたらし播磨守、大宰大弐となる。信西と藤原信頼・二条親政派の対立では中立的立場をとっていたが、平治元年(1159年)の平治の乱で政権を握った藤原信頼・経宗・惟方などの反信西派を一掃することで、急速にその政治的地位を高めることになる。この過程で源義朝・源重成・源季実・源光保といった有力武士が滅亡したため、清盛は武士の第一人者として朝廷の軍事力・警察力を掌握した。これにより、清盛は武家政権樹立の礎を築くにいたったのである。

全盛期 [編集]





長寛2年(1164年)に厳島神社に奉納した『平家納経』 観普賢経 見返し
室の時子が二条天皇の乳母だったことから、清盛は天皇の乳父として後見役となり検非違使別当・中納言になる一方、後白河上皇の院庁の別当にもなり、天皇・上皇の双方に仕えることで磐石の体制を築いていった。応保元年(1161年)9月、後白河上皇と平滋子の間に第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)が生まれると、平時忠・平教盛が立太子を画策した。二条天皇はこの動きに激怒し、時忠・教盛・藤原成親・藤原信隆を解官して後白河院政を停止した。清盛は天皇の皇居に武士を宿直させて警護することで、二条天皇支持の姿勢を明確にした。翌年3月には平治の乱で配流されていた二条親政派の藤原経宗が帰京を許され、6月には時忠・源資賢が二条天皇を賀茂社で呪詛した罪で配流された。清盛は二条天皇の厚い信任を受け、親政を軌道に乗せた。さらに関白・近衛基実に娘・盛子を嫁がせて、摂関家とも緊密な関係を結んだ。院政を停止させられた後白河上皇への配慮も怠りなく、長寛2年(1164年)蓮華王院を後白河上皇のために造営している。蓮華王院には荘園・所領が寄進され、後白河上皇の経済基盤も強化された。二条天皇は後白河上皇の動きに警戒心を抱き、長寛3年(1165年)重盛を参議に任じて平氏への依存を深めるが、7月28日崩御した。
Date: 2012/01/08/21:04:50   No.38

Re:平 清盛
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後継者の六条天皇は幼少であり基実が摂政として政治を主導して、清盛は大納言に昇進して基実を補佐した。9月、時忠が帰京を許され、12月25日に憲仁親王が親王宣下を受けると、清盛は勅別当になった。後白河院政派は次第に勢力を盛り返していたが、清盛は後白河上皇の行動・性格に不安を覚え、院政復活を望まなかったという。永万2年(1166年)7月26日摂政・氏長者の基実が急死して後白河院政が復活すると、基実の子・基通が幼少であることから弟・基房が摂政となる。基実の領していた摂関家領が基房に移動すれば、平氏にとって大打撃となる。清盛は藤原邦綱の助言により、殿下渡領・勧学院領・御堂流寺院領を除いた私的家領を後家の盛子に相続させることで、摂関家領の管轄に成功した。10月10日に憲仁親王が立太子すると清盛は春宮大夫となり、11月には内大臣となった。翌仁安2年(1167年)2月に太政大臣になるが、太政大臣は白河天皇の治世に藤原師実と摂関を争って敗れた信長が就任してからは実権のない名誉職に過ぎず、わずか3ヶ月で辞任する。清盛は政界から引退し、嫡子・重盛は仁安2年5月宣旨により東海・東山・山陽・南海道の治安警察権を委任され、後継者の地位についたことを内外に明らかにした。





厳島神社 仁安3年(1168年)清盛の援助によって今日のような海上社殿が造られた。
仁安3年(1168年)清盛は病に倒れ、出家する。原因は「寸白(すびゃく)」(寄生虫の病)だったとされる。清盛の病状が政情不安をもたらすことを危惧した後白河上皇は、当初の予定を早めて六条天皇から憲仁親王に譲位させることで体制の安定を図った。病から回復した清盛は福原に別荘雪見御所を造営して、かねてからの念願だった厳島神社の整備・日宋貿易の拡大に没頭する。嘉応元年(1169年)後白河上皇は出家して法皇となるが、清盛は後白河法皇とともに東大寺で受戒して協調につとめた。これは、鳥羽法皇と藤原忠実が同日に受戒した例に倣ったものであった。この頃は、後白河法皇が福原を訪れ宋人に面会、清盛の娘・徳子が高倉天皇に入内、福原で後白河法皇と清盛が千僧供養を行うなど両者の関係は友好的に推移していた。この間、平氏一門は隆盛を極め、全国に500余りの荘園を保有し、日宋貿易を推進して莫大な財貨を手にし、平時忠をして「平氏にあらずんば人にあらず」といわしめた。
Date: 2012/01/08/21:05:30   No.39

Re:平 清盛
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平氏に対する不満 [編集]

ところが、この清盛の勢力の伸張に対して、後白河法皇をはじめとする院政勢力は不快を感じるようになり、建春門院の死を契機に次第に清盛と対立を深めていく。

治承元年(1177年)6月には鹿ケ谷の陰謀が起こる。これは多田行綱の密告で露見したが、これを契機に清盛は院政における院近臣の排除を図る。西光は処刑とし、藤原成親は備前へ流罪(7月9日に食物を与えられず殺害される)、俊寛らは鬼界ヶ島に流罪に処したが、後白河法皇に対しては罪を問わなかった。ただし、実際に平氏打倒の陰謀があったかは不明であり、直前に後白河法皇から延暦寺攻撃を命じられた清盛が、延暦寺との衝突を回避するために行ったとする見方もある。

治承3年(1179年)、この年は清盛にとって不幸の連続であった。まず6月に、娘の盛子が死去する。ところが盛子が死去すると、法皇は直ちに盛子の荘園を清盛と相談もせずに没収するにいたった。さらに7月、重盛が42歳で病死してしまった。これには清盛もさすがに落胆の色を隠せなかったが、後白河法皇は重盛の死去と同時に、またも清盛に何の相談もなく重盛の知行国であった越前国を没収してしまった。さらに、法皇は20歳の基通(室は清盛女・完子)をさしおいて、8歳の師家を権中納言に任じた。この人事によって摂関家嫡流の地位を松殿家が継承することが明白となった。近衛家を支援していた清盛にとっては、見逃せることではなかった。

清盛はこの後白河の自分を無視する施策に激怒し、11月14日、福原(現在の神戸)から軍勢を率いて自ら上洛し、クーデターを決行した。いわゆる治承三年の政変であるが、清盛は関白・基房、権中納言・師家を手始めに、藤原師長など反平氏的とされた39名に及ぶ公卿・院近臣(貴族8名、殿上人・受領・検非違使など31名)を全て解任とし、代わって親平氏的な公家を任官するにいたったのである。これに対して後白河法皇は恐れを覚えて清盛に許しを請うが、清盛はこれを許さず、11月20日には鳥羽殿に幽閉するにいたった。ここに後白河院政は完全に停止された。清盛は、後の処置を宗盛に委ね福原に引き上げた。このクーデターは発端が後白河法皇の挑発であったため、院政停止後の政権構想がしっかりと準備されていなかった。高倉天皇・近衛基通・平宗盛の三人はいずれも政治的経験が未熟であり、結局は清盛が表に出てこざるを得なかった。清盛は、解官していた平頼盛・花山院兼雅の処分を解除するなど一門の結束につとめ、基通の補佐のため藤原氏の有力者である左大臣・経宗、右大臣・九条兼実の懐柔を図った。実際の政務に関しては、平時忠・藤原隆季・土御門通親などの能吏が清盛の代弁者となった。治承4年(1180年)2月、高倉天皇が譲位、言仁親王が践祚した(安徳天皇)。安徳天皇の母は言うまでもなく清盛の娘・徳子である。名目上は高倉上皇の院政だったが、平氏の傀儡政権であることは誰の目にも明らかだった。さらに、法皇を幽閉して政治の実権を握ったことは多くの反平氏勢力を生み出すことになる。
Date: 2012/01/08/21:06:35   No.40

Re:平 清盛
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平氏の独裁に対して反抗の第一波となったのは、後白河法皇の第3皇子以仁王の挙兵だった。以仁王は優秀であったが建春門院の圧力で親王宣下も受けられず、八条院の猶子となって即位の機会を伺っていたものの、今回のクーデターでその望みは絶望的なものとなっていた。以仁王には、八条院直属の武力ともいえる源頼政・下河辺行義・足利義清・源仲家などが付き従い、平氏に反発する興福寺・園城寺もこの動きに同調した。しかし計画は未然に発覚、清盛の手早い対策により検非違使で平氏家人の藤原景高・藤原忠綱が300騎の兵で追撃して、以仁王と源頼政らを討ち取った。しかし寺社勢力、特に園城寺と同じ天台宗で親平氏の延暦寺でも反平氏勢力の動きがあり、清盛は有力寺社に囲まれ平氏にとって地勢的に不利な京都を放棄し、6月、一門の反対を押し切り、平氏の拠点である国際貿易港の大輪田泊(現在の兵庫県神戸市)を望む地への遷都を目指して福原行幸を強行する。

しかし以仁王の令旨が全国各地に飛び火して、8月には伊豆に流されていた源頼朝、武田信義を棟梁とする甲斐源氏、9月には信濃国において木曾義仲が挙兵する。これに対して清盛は頼朝らの勢力拡大を防ぐため、平維盛を総大将とした大軍を関東に派遣したが、富士川の戦いでは交戦をせずに撤退してしまった。

この敗戦を契機として寺社勢力、特に以仁王の反乱に協力的であった園城寺・興福寺が不穏な動きを見せ始める。さらに、近江源氏が蜂起し園城寺・延暦寺の反平氏分子と提携して、物流の要所・琵琶湖を占拠し、反乱勢力は旧都を攻め落とす勢いにまで成長した。また、九州でも反乱が勃発、高倉や公家衆、さらに平氏一門や延暦寺からも遷都を望まない声が高まり、11月23日、清盛は京都に帰還するにいたった。12月になると清盛は、知盛・資盛・藤原清綱らが率いる軍勢を差し向けて園城寺を焼き払い、近江源氏の山本義経・柏木義兼を打ち破って、近江の平定に成功する(近江攻防)。次に清盛が標的としたのは、畿内最大の反平氏勢力・興福寺だった。清盛は背後の脅威を一掃することを決意して、重衡を総大将とした大軍を南都に派遣した。12月28日、興福寺・東大寺など南都の諸寺は炎上した。確かにこれにより都周辺の反平氏勢力の動きは鎮静化したが、南都焼討は清盛が恐れていた「仏敵」の汚名を着せるにいたってしまった。

最期 [編集]





平清盛 菊池容斎画、明治時代
治承4年末までには(1180年)、平氏の勢力基盤である西国においても伊予の河野通清・河野通信父子、翌治承5年1181年には豊後の緒方惟栄・臼杵惟隆・佐賀惟憲ら豪族が挙兵し、伊勢志摩においても反乱の動きがあった。さらに東国においても平氏方であった佐竹氏などが頼朝によって討伐されるなど、反乱がいよいよ深刻化してくる。

このような中で、清盛は京都を中心に新体制を築こうと、畿内近国の惣官職を置いて宗盛を任じた。天平3年(731年)に京・畿内を対象に兵馬の権を与えられた新田部(にいたべ)親王の例に倣ったものであり、畿内近国に兵士役と兵糧米を課して臨戦体制を築いた。また丹波に諸荘園総下司職を設けて、平盛俊を任じた。さらに越後の城資永、陸奥の藤原秀衡に源頼朝・武田信義追討の宣旨を与えている。2月26日には重衡の鎮西下向を中止し、宗盛以下一族の武士が東国追討に向かう事が決められていたが、清盛は27日に熱病に倒れた。死期を悟った清盛は、自分の死後はすべて宗盛に任せてあるので、宗盛と協力して政務を行うよう法皇に奏上したが、返答がなかったため、恨みを残して「天下の事は宗盛に任せ、異論あるべからず」と言い残し、閏2月4日に九条河原口の平盛国の屋敷で死去した。享年64。

病状の記録から、恐らくは大陸から伝来して流行していた風土病であるマラリアに罹ったものと思われる。清盛の死により、平氏の新体制作りは計画倒れに終わってしまうのである。『平家物語』では清盛が死に臨んで「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」と遺言を残したとしている。『玉葉』によると、死去した年の8月1日、頼朝が密かに院に平氏との和睦を申し入れると、宗盛は清盛の遺言として「我の子、孫は一人生き残る者といえども、骸を頼朝の前に晒すべし」と述べてこれを拒否している事から、頼朝への激しい憎悪があった事は事実と思われる。
Date: 2012/01/08/21:07:23   No.41

Re:平 清盛
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清盛の死後、嫡男の重盛はすでに病死し、次男の基盛も早世していたため、平氏の棟梁の座は三男の宗盛が継いだが、全国各地で相次ぐ反乱に対処できず、後白河法皇の奇謀に翻弄され院政勢力も勢力を盛り返すなど、平氏は次第に追いつめられていった。しかも折からの飢饉(養和の大飢饉)という悪条件なども重なって、寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅した後、義仲軍の攻勢の前に成す術無く都落ちする。そして元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いに敗れて平氏は滅亡した。

『平家物語』における悪虐、非道、非情の描写から、平清盛は古来成り上がり者の暴君、という評価が定着していたが、一方で実際の清盛の人物像は温厚で情け深いものだったともいわれている。『十訓抄』7-27には、若い頃の清盛について「人がとんでもない不都合な振る舞いをしても、冗談と思うことにした」「やったことがちっともおかしくなくても、相手への労わりとしてにこやかに笑い、とんでもない誤りをしても、役立たずと声を荒らげることはない」「冬の寒い時に身辺に奉仕する幼い従者を自分の衣の裾の方に寝かせ、彼らが朝寝坊をしていたらそっと床から抜け出して存分に寝かせてやった」「最下層の召使いでも、彼の家族や知り合いの見ている前では一人前の人物として扱ったので、その者は大変な面目と感じて心から喜んだ」という逸話が記されている。

「平家物語」においても若い頃に世話になった藤原顕時の息子である藤原行隆が苦境に陥っていることを知り、援助を申し出るなど、義理堅い一面が描かれている。

清盛の非道を示す有名なエピソードである「殿下乗合事件」は、清盛が松殿基房に報復したというのは『平家物語』のフィクションであって、実際には非道な報復を行ったのは重盛であり、『玉葉』や『百錬抄』の記述によれば清盛はむしろ基房に謝罪的な行為を示したと言われる。事件の背後には平氏と摂関家の強い反目があったと考えられる。

また平治の乱前後の清盛について『愚管抄』に「ヨクヨク謹ミテ、イミジク計ラヒテ、彼方此方シケル」とあり、如才なく諸方に気を配る人物であり、複雑な院政期の政界を生き抜く処世術を持っていた。しかし大きな権力を持つようになり、それを維持するために院・摂関家・寺社勢力と対立していく過程で強引な手段に出るようになり、評判も悪くなったのである。『源平盛衰記』では僧侶の祈祷によって雨を降らせた事を偶然に過ぎないと一蹴したり、経が島では清盛が人柱を廃止したという伝説があるなど、迷信に囚われない開明的な考え方の逸話も見られる。また、政治的には日宋貿易に見られるような財政基盤の開拓、経が島築造に見られるような公共事業の推進など、時代の矛盾に行き詰まりつつあった貴族政治に新生面を切り開いた優れた政治家であった。

軍記物の影響から政治上手の戦下手の印象もあるが、実際には平治の乱で複数の部隊を連携させた戦術で藤原信頼軍を打ち破っているばかりか、御所や市街地の被害も最低限に抑えることに成功しており、「洗練された戦法(評:元木泰雄)」を得意とする優秀な指揮官である。

また、京都でも大きな勢力をもつようになっていた仏教勢力の抑制に努めた人物でもある。皇位継承問題に干渉した興福寺と園城寺に総攻撃をかけたことは当時は評判が悪かったものの、強大な武力をもつ宗教勢力が皇位継承のような重大な政治問題に関わることを止めた意義は無視できない。皮肉なことにこの政策は敵である鎌倉幕府に僧兵を擁しない禅宗や念仏宗の保護といった穏健化した形で受け継がれていく。
Date: 2012/01/08/21:08:16   No.42


山中 毅(やまなか つよし、1939年1月18日 - )
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山中 毅(やまなか つよし、1939年1月18日 - )は、石川県輪島市生まれの競泳選手。

人物 [編集]

石川県立輪島高等学校在学中の1956年メルボルンオリンピックに出場。自由形400mと1500mの2種目では、オーストラリアのマレー・ローズ(1939年 - )に敗れて銀メダル。

早稲田大学進学後の1960年ローマオリンピックでも、自由形400mでローズに敗れ銀メダル。

1964年の東京オリンピックとあわせて、3度のオリンピックで延べ7種目に出場し、4個の銀メダルを含めて、すべて入賞した。

早稲田大学卒業後、南カリフォルニア大学に留学。1961年には、2ヶ月間に自由形200mの世界新記録を3度更新するなど、同じ大学に留学してきたローズとともに南カリフォルニア大学の黄金時代を築いた。

帰国後は大洋漁業(現マルハニチロ水産)に就職した。また、イトマンスイミングスクールの取締役も務めている。

1983年、「国際水泳殿堂」 (International Swimming Hall of Fame) に選出された。

山中の母親は海士で、出産の数日前まで海に潜っていた。そのため「山中は生まれる前から泳いでいる」の逸話が残っている。

1995年に行われた参議院議員選挙の比例区にさわやか新党から出馬している。



Date: 2012/01/08/19:38:54   No.30

Re:山中 毅(やまなか つよし、1939年1月18日 - )
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オリンピック



男子 競泳





1956

400m自由形





1956

1500m自由形





1960

400m自由形





1960

4×200mリレー
Date: 2012/01/08/19:40:39   No.31


前畑 秀子
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前畑 秀子(まえはた ひでこ、1914年(大正3年)5月20日 - 1995年(平成7年)2月24日)は、和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)出身の水泳選手。結婚後の姓は兵藤(ひょうどう)といい、「兵藤秀子」の名前でもよく知られている。
Date: 2012/01/08/19:26:12   No.27

Re:前畑 秀子
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1914年(大正3年)に和歌山県伊都郡橋本町(現・橋本市)で豆腐屋を営む家に生まれ、紀ノ川で泳ぎを覚える。尋常小学校5年生のとき女子50m平泳ぎで学童新記録を出し、高等小学校2年生のとき汎太平洋女子オリンピックに出場し100m平泳ぎで優勝、200m平泳ぎで準優勝した。前畑は高等小学校を卒業すれば家業を手伝う予定だったが小学校校長などの尽力により、椙山女学園創立者の椙山正弌のすすめで名古屋の椙山女学校(現・椙山女学園)に編入し水泳を続けることになった。椙山正弌は前畑のために寮を提供し、また学園内に新しいプールを作り全面的に支援した[1] [2]。1931年(昭和6年)1月に母が脳溢血で死去、6月に父が脳溢血で死去し両親を失う。

1932年(昭和7年)に開催された第10回大会ロサンゼルスオリンピックの200メートル平泳ぎに出場し、銀メダルを獲得した。この後引退も考えたが、周囲の期待が大きすぎて現役続行を決意。1933年(昭和8年)9月30日には200m平泳ぎの世界新記録を樹立。

3年後の1936年(昭和11年)、ナチス体制下のドイツで開かれたベルリンオリンピックの200m平泳ぎに出場し、ドイツ代表のマルタ・ゲネンゲルとデッドヒートを繰り広げて、1秒差で見事勝利。日本人女性として五輪史上初めてとなる金メダルを獲得した。この試合をラジオ中継で実況したNHKアナウンサー河西三省は、中継開始予定時刻の午前0時を過ぎたため「スイッチを切らないでください」という言葉から始めた。

河西は、興奮のあまり途中から「前畑ガンバレ!前畑ガンバレ!」と20回以上も絶叫し、真夜中にラジオ中継を聴いていた当時の日本人を熱狂させた。この放送を聴いていた名古屋新聞浜支局の支局長が興奮のあまりショック死してしまうという事件も起こった。その放送は現在でも語り草となっており、レコード化もされている(ただし一部は異なっており、「前畑危ない」というセリフはカットされている)[3]。

また、ヨーロッパを視察中だった鉄道省技師の島秀雄が、この競技を実際に観戦していた。その後も世界記録を何度も樹立し、200m平泳ぎなどで活躍した(参考:日本の夏季オリンピック金メダル)。

1937年(昭和12年)、前畑は名古屋医科大学(後の名古屋帝国大学、現在の名古屋大学医学部)助手の兵藤正彦と結婚し兵藤姓となる。

引退後は椙山女学園職員として後進の育成に努め、ママさん水泳教室を開くなど一般への普及にも貢献した。

1964年11月の秋の褒章で、紫綬褒章を受章。

1977年ベルリンでマルタ・ゲネンゲルと再会。二人は一緒に50mを泳いだ。[4][5]

1983年(昭和58年)に脳溢血で倒れるが、リハビリにより再びプールに復帰した。

1990年(平成2年)、日本女子スポーツ界より初めて文化功労者に選ばれた。

1995年(平成7年)2月24日、急性腎不全のため80歳で死去した[6]。

趣味として麻雀があり、正月休みは親戚宅で連日麻雀大会に打ち興じていたという。

スポーツシャワー〜ヒーローに花束を〜のインタビューの中で「練習中、泳いでいながらプールの中で汗が流れるのがわかった」と当時の過酷な練習を振り返っていた
Date: 2012/01/08/19:26:58   No.28

Re:前畑 秀子
古今東西のお話      性別: 秘密   年代: ナイショ   居住地: 秘密  
母校である椙山女学園中学校・高等学校の校内には、前畑と、ともにベルリンオリンピックに出場した小島一枝のふたりの水着姿の銅像があり、また、前畑がヒトラーからもらった樫の木「オリンピック・オーク」の2代目が植えられている [7]。
日本選手権水泳競技大会の競泳女子200m平泳ぎ優勝者には前畑秀子杯が贈与されている。
愛知県では毎年開催される県選手権水泳競技大会で、男女の200m平泳ぎ優勝者に対し、高さ20cmほどの「前畑秀子杯」が贈られている。
Date: 2012/01/08/19:28:06   No.29

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